−マルチメディア・ソフトの著作権に関する法政策的考察−
須 川 賢 洋
提出 平成7年1月10日
指導教官 名和小太郎
本論文は 40字×30行 構成であり、
1頁当たり 400字詰め原稿用紙3枚分に相当する。
− はじめに − 1
1. マルチメディア その政治的・社会的背景 3
2. 現行著作権法制度におけるマルチメディアの位置づけ 5
2.1 著作権の分類 5
2.2 著作者人格権の保護 7
2.2.1 著作者人格権 7
2.2.2 同一性保持権 8
2.2.3 名誉・声望を害する利用 9
2.3 マルチメディアと著作権 9
2.3.1 マルチメディア・ソフトの特徴 9
2.3.2 マルチメディアと著作権の関係 11
3. 現行制度の問題と解決策 15
3.1 著作権審議会『報告書』 15
3.1.1 同『報告書』 要旨 15
3.1.2 マルチメディア・ソフトの著作物性に関する議論 18
3.1.3 マルチメディア・ソフトの著作物性を現行法の権利の範疇で考えた場合 18
3.1.4 「マルチメディア・ソフトの著作物」という概念の必要性の考察 25
3.2 知的財産研究所『Exposure(公開草案)'94』 28
3.2.1 『Exposure(公開草案)』の意見要旨 28
3.2.2 文化庁・著作権審議会報告書との比較 33
3.2.3 著作者人格権の制限に関する議論 34
(1) シンポジウムでの討論 34
(2) 『Exposure(公開草案)』に対する反対説 37
(3) デジタル化と著作者人格権 39
(4) デジタル化した者への権利保護 39
(5) 著作者人格権を制限しようという各種意見 40
3.3 マルチメディア・ソフト著作権に関しての法政策的考察 44
4. フェアユースに関する考察 − アメリカの法制度を参考にして 51
4.1 フェアユースについて 51
4.2 パロディとフェアユース 53
4.2.1 「Campbell 対 Acuff-Rose 事件」の判旨 53
4.2.2 判決に対する考察 55
4.3 日本におけるフェアユース理論の適用の可能性 58
− おわりに − 61
− はじめに −
最近「マルチメディア」という新しい表現形態を持つメディアが開発され商品化されるようになった。マルチメディアはその名の示すごとく、様々なメディアの融合体である。個々のメディアについては、そのそれぞれを規制する法制度があるが、それらは必ずしも整合性のとれたものではない。この問題は、著作権制度において特に顕著である。マルチメディア社会においては、「一方において電子化した情報の保有者の利益を守りながら、どうすれば電子化した情報を、だれでも効率よく入手し、利用できるようになるか」1)という課題が生じるためである。つまり、マルチメディア・ソフト著作物に対して、個々の著作物ごとに定義される既存の法理をそのまま適用したのでは、権利者の保護ができず、さらにマルチメディアの普及そのものが阻害されるという弊害が生じる。
これに対処するため、文化庁では著作権審議会のなかにマルチメディア小委員会を設け、その『第一次報告書』(以下『報告書』)を1993(平成5)年11月に発表した。同小委員会は、その中で問題解決のための方法や可能性を挙げ、その多くを継続審議の必要ありとし、さらにその検討を行っている。また、通産省の外郭団体である「知的財産研究所」でも、『Exposure(公開草案)』という形で1994(平成6)年2月に報告書を作成している。
本論文はその第3章で、これらの報告書の中の主要な問題を検討し、同種の他の報告書や学説と比較しつつ、その解決の可能性を探るものである。とくに「著作者人格権」の問題をいかに扱うべきかということに重点を置き検討する。その理由は、既存の著作物を改変又は削除して、新たなる著作物をつくるということがマルチメディア・ソフト製作の段階では多用され、かつ不可欠であるにもかかわらず、著作権制度のなかで大きな意味を持つ「著作者人格権」はこのような著作物の改変を認めない2)性質を持ち、それはひいてはマルチメディア・ソフトの流通そのものを阻害することになりかねないからである。
また本論文の第4章では、今後もわが国において著作者人格権(特にそのうちの同一性保持権)を今の形のままで保持していくことが有意義かどうかを考察するために、著作者人格権という概念を使用せず、公正使用(フェア・ユース)という概念を用い著作権者の権利の保護を行っているアメリカの場合について、フェア・ユースに関する最近の判例を参考にしながら、そのような法理を、日本のマルチメディア・ソフトの権利保護にも適応させることが、可能かどうかを考える。
なお、本論文においては「マルチメディア」に対して、「文字、音声、静止画、動画などの多様な表現形態の情報を統合した伝達媒体又はその利用手段で、単なる受動的利用ではなく使用者の自由意思で情報の選択、加工、編集等ができる双方向性を備えたもの(インタラクティブなもの)」という著作権審議会マルチメディア小委員会の報告書で用いられた定義をそのまま使うこととし、著作物の呼称に関しても現在、「マルチメディア・ソフト」「マルチメディア・タイトル」と、二通りの言い方が存在するが、引用の場合を除いて、「マルチメディア・ソフト」に統一する。
さらに同報告書では、パッケージ型ソフトを中心に考察し、ネットワーク型ソフト特有の問題は今後の検討課題としているが、本論文では、ネットワーク型のソフトが流通することまでも前提として考察することとする3)。
1. マルチメディア その政治的・社会的背景
アメリカにおいて、クリントン大統領、ゴア副大統領による民主党政権が発足する際、同政権は情報インフラの整備をその公約に掲げた。その基本となるのはゴアが下院議員時代に発表した「情報スーパーハイウェイ構想」4)である。この政策を受けて、アメリカ政府は「THE NATIONAL INFORMATION INFRASTRUCTURE:AGENDA FOR ACTION」を1993年9月に発表した。ここには、情報スーパーハイウェイによって変わるであろう産業構造やライフ・スタイルが示されている。ここにいたって、デジタル情報の流通に人々の関心が集まるようになった。
日本でも、NII(National Information Infrastructure)に対抗して、光ファイバーを全家庭まで張り巡らす計画の目標年度を、2015年から2010年に引き上げた。さらに郵政省は1994年3月に、2010年のマルチメディア関連産業の市場規模を試算し、123兆円と発表した5)。この123兆円という数字の正否はともかく、この大規模な市場に対し、国家や企業が、それぞれの利権や覇権を求めて一斉に動き始めていることは事実である。
また、一般生活の分野においても、パソコン本体やその付随装置であるCD−ROMが急速に普及し、大容量の情報を活かした、動画やサウンド入りのソフトが次々と発売されている。さらにネットワークの利用に関しても、パソコン通信のユーザーが日本国内で
200万人を超え、以前は一部の範囲の人に利用が限られていたインターネットも、mosaic というソフトの登場によって、非常に手軽に映像や音声も含めた情報を誰もが入手できるようになり、その利用者は急激に増加している。
アメリカでは、すでにNIIに本格的に取り組み始めており、知的財産権の分野でも、1994年7月に「INTELLECTUAL PROPERTY AND THE NATIONAL INFORMATION INFRASTRUCTURE」というレポートが「情報基盤設備専門委員会:IITF(INFORMATION INFRASTRUCTURE
TASK FORCE)」6)によって発表されている。マルチメディア関連の法律や制度面に関する限り、その議論は確実に、地に根ざしたものである。本論文でも、その一環として、日本のマルチメディア社会のあるべき姿について検討する。
2. 現行著作権法制度におけるマルチメディアの位置づけ
著作権法はその第1条に、「文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、文化の発展に寄与すること」を目的とすると示し、第2条に「著作物とは思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」と定義している。
マルチメディア・ソフトも知的生産による産物である以上、著作権による保護が当然必要とされる。マルチメディア・ソフトの著作物性の議論に入る前に、著作権について、本論文に関係する部分に関して簡単に述べる。
2.1 著作権の分類
著作権の保護領域は三つの部分からなる。一つは狭義な意味での「著作権」、すなわち財産権としての性格をもつ著作権であり、これは財産権であるが故に譲渡することも可能である。また一つは作品を製作した著作者の人格的側面の保護を対象とする「著作者人格権」であり7)、そしてもう一つは放送事業者や実演家、レコード製作者の権利を保護する「著作隣接権」である。
著作権に関する各権利を簡単に図説すると次頁のようになる。
著作権の分類
著作権─┬─(狭義の)著作権 複製権(21条)
│ 上演権及び演奏権(22条)
│ 放送権・有線送信権等(23条)
│ 口述権(24条)
│ 展示権(25条)
│ 上映権及び頒布権(26条)
│ 貸与権(26条の2)
│ 翻訳権・翻案権等(27条)
│ 二次利用に関する原著作者の権利(28条)
│
├ 著作者人格権 公表権(18条)
│ 氏名表示権(19条)
│ 同一性保持権(20条)
│
└ 著作隣接権 実演家の権利(91条〜95条の2)
レコード製作者の権利(96条〜97条の2)
放送事業者の権利(98条〜100条)
有線放送事業者の権利(100条の2〜100条の4)
2.2 著作者人格権の保護
マルチメディアの著作権問題では、三つの保護領域のうち、著作者人格権の扱いが特に大きな問題になる。よって著作者人格権について次に解説する。
2.2.1 著作者人格権
著作者人格権には「公表権」、「氏名表示権」、「同一性保持権」がある。このうち、「公表権」は自らの著作物を公表するかどうかを決め、公表するならば、いつどういう形で行うかを著作者が決める権利であり(18条)、「氏名表示権」は著作物の製作者の名前を表示するかどうか、表示するとすれば実名にするかどうかを決める権利であり(19条)、「同一性保持権」は著作物やその題名の同一性を維持し、意に反した改変を禁じる権利である(20条)。
著作者人格権は放棄することのできない権利であり、一身専属のものである。従って、その著作者本人だけに限って適用されるもの8)であり、財産権のように譲渡したり売買することはできない。これは著作権内の他の二つの権利、すなわち(狭義の)著作権と著作隣接権が、一般の商品のように市場での経済取引の対象になることとは相反するものであり、このことがベルヌ条約加盟国たるわが国の著作権制度を複雑にしている一因にもなっている9)。
2.2.2 同一性保持権
マルチメディア著作権について論じる際には、著作者人格権の中でも、とくに同一性保持権が問題となる。
同一性保持権は著作権法の第20条に定められているが、同条文は著作者の意に反した改変を認めないことをはっきりと記している。同一性保持権を明文化した趣旨は、加戸守行の『著作権法逐条講義』(以後、『加戸・逐条講義』)によれば10)、「著作物が著作者の人格の具体化されたものであることから、著作物に具体化された著作者の思想・感情の表現の完全性あるいは全一性を保つ必要がある」11)ということにある。つまり、著作物を勝手に改変することは、著作者が表現しようとした思想・感情を歪曲することになり、これはひいては著作者の人格権を侵害するものになるということである。
しかしこの条項は、著作者が拒否した場合、作品を僅かでも改変することが事実上不可能であることを意味しており、これは裏返せば、わずかでも改変しようとすれば、著作者の同意を得る必要が生じるということになる。
同一性保持権の内で議論されるべき問題であり、かつ今後の本論文の展開において関連してくるものにはいわゆる「パロディ」に関する問題が存在する。パロディはれっきとした著作物の改変であるが、著作者の意に反した改変で、同一性保持権が侵害されるとみなされるのは、「二次著作物を通じて原作品がこんなものであるかという誤解を抱かせる恐れがあるような場合」であり、「既存の原作をパロディ化したり、もじったことが一見して明白であり、かつだれにもふざけ茶化したものとして受取られ、原作者の意を害しないと認められる場合」は条文の解釈上、同一性保持権は侵害されないとみなされている12)。ただしこの境界は非常に曖昧であり、どこまでが法の許可するパロディであり、どこからが同一性保持権の侵害に当たるかは裁判所の判断に委ねられることになる。
2.2.3 名誉・声望を害する利用
著作権法は18〜20条以外にも、その130条第3項において著作者の名誉又は声望を害するような著作物の利用を行った場合にも著作者人格権を侵害する旨を規定している13)(この具体例については 3.3 にて説明する)。
2.3 マルチメディアと著作権
著作権保護という概念が生じた当時は、一般の印刷物や美術品等がその対象であり、オリジナルと複製物とは明確に区別することができた。しかし、コンピュータをはじめとするデジタル機器の登場により従来の著作物の概念やその保護のあり方をとらえなおす必要が生じてきた。つまり、従来の法の定義の枠の中では収まりきらない著作物が存在するようになったのである。なぜならデジタル信号によって記録された情報は、非常に簡単に、また全く劣化することなく複製することができ、更に改変をも非常に容易に行えるという性質を持つからである。
2.3.1 マルチメディア・ソフトの特徴
まず、デジタル著作物やマルチメディア・ソフトの特徴について、著作権上の問題を意識しつつ述べる。
マルチメディア・ソフトはデジタル情報の集まりである。そしてデジタル・メディアでは、情報がデジタル方式で記録されているが故に、従来のアナログ・メディアには無かった問題が生じる。では、このデジタル情報であるが故に生じる問題とはいかなるものであるか。OTA(米国議会技術評価局)のレポートでは、デジタル情報の特徴として、
(1)著作物が、容易に複製される。(2)著作物が、容易に他のユーザーに転送されたり、複数のユーザーにアクセスされ得る。(3)著作物が容易に操作され、改変され得る。(4)著作物が本質的に同値である。すなわち、テキスト、ビデオ、音楽がみなビット列に変換され、同一の媒体に保管される。(5)著作物が検索、デコーディング、ナビゲーションのためのハードウェア及びソフトウェアのツールを持たないユーザーにはアクセスされ得ない。(6)ソフトウェアが新しい方法で検索できる著作物を作成することのできる、新たな検索及びリンク行為を可能にする。14)といったことを挙げている。
デジタル情報の上述の特徴は当然、全てマルチメディア・ソフトにも該当するが、これに加え、マルチメディア・ソフトそのものの特徴を考慮しなければならない。
マルチメディアの定義は、序文で引用した定義のごとく、従来はそれ単独で一つの著作物を形成していた文字作品、音声作品、画像作品15)と言ったものを、いろいろな形で組み合わせて一つの作品として思想・感情を表現したものである。この認識は、全ての定義において共通のものである。すなわち、マルチメディア・ソフトでは、様々なメディア上のデジタル情報が互いに優劣なく組合わさって一つの作品となるのである。
さらにいったん流通した作品は様々な形でユーザに利用される。コンピュータ分野の用語によれば、各種の方式で記録され、伝送され、出力されるわけである。
すなわちマルチメディアのマルチは、「表現がマルチであること」と「伝送メディアがマルチであること」16)の両方の意味合いを持つものである。この場合のマルチは様々な手段・選択肢を持つことを意味する。
以上のことから、マルチメディアは以下の二点において従来の著作物には見られなかった特徴を持つものだと言えよう。一つは表現がマルチであることより、(1)「様々な表現形態、様々な情報の統合性、すなわちメディアの統合性」というもの。もう一つは、伝送メディアがマルチであることより、一方的な情報の伝達ではなく不特定多数の人間の間で相互に対話的に情報のやり取りができ、しかも自らの意思で必要な情報を取捨選択し、自らも情報を発信しながら、巨大な情報網を巡り歩くということが可能な (2)「ユーザーの意思が大きく反映される高度なインタラクティブ性(双方向性)」というものをもたらすことである。この二点が、著作権との関連を考える上で、重要視すべき項目である。
このことは、「マルチメディアソフト振興協会」の報告書に、以下のようなことがマルチメディアの特徴として挙げられていることからも伺うことができる。同報告書17)は、第一に、「構造上の特徴として、プログラム部分とデジタルデータ部分からなる点、映像・音楽・文字情報が結合されている点」を挙げ、第二に、「制作時における特徴として、素材作品を使用して制作される点、オーサリングツールを使用して制作される点、シナリオに基づいて制作される点」を示し、さらに第三に、「利用時における特徴として、ユーザーの操作によって出力シーケンスが千差万別となる点、クローンコピーが可能である点、改変利用が容易である点、通信ネットワークでの伝送が容易である点」があると報告している。第一と第二は「メディアの統合性」に、また第三は「高度なインタラクティブ性」に対応する。よって、マルチメディア・ソフトは従来のアナログ著作物が全く持ち得なかった特徴を多く有し、更にコンピュータ・ソフトやデータベースといった最近になって登場したデジタル著作物の持つ特徴をより顕著に有すると言える。
2.3.2 マルチメディアと著作権の関係
本項では、前項で挙げたマルチメディアの二大特徴である「メディアの統合性」と「高度なインタラクティブ性」に関して著作権の見地からの考察を加える。
まず、「メディアの統合性」についてであるが、マルチメディアは、複数の著作物やメディアが融合するものであり、「音楽」「美術」「写真」「映画」「コンピュータ・プログラム」「データベース」など現行著作権法上のいろいろな種類の著作物が関係している。
さらに今後、通信ネットワーク上でのマルチメディア・ソフトの流通が行われるようになれば、「放送権」や「有線送信権」といった「著作隣接権」問題も関連してくる。18)
ここで留意しなければならないことは、これらメディアの媒体が異なると、それに伴って、保護内容も異なってくるということである。
例えば、「映画の著作物」19)に認められている「頒布権」は「写真」や「美術」といった他の著作物には認められておらず(第26条)、もしマルチメディア・ソフトを「映画の著作物」的に考えると、自らの著作物の先々での公表をコントロールすることができるこの頒布権が認められることになる。
しかし私見によれば、マルチメディア・ソフトにおいては、現実には、著作者がユーザーに対してその著作物の使われ方までをコントロールするのは不可能と考えている。第一の理由として、マルチメディア・ソフトが、デジタル・メディアであるが故に、改変が容易かつ多様性に富むことがある。第二の理由としては、将来ネットワーク上をマルチメディア・ソフトが頻繁に流れるようになることを考えた場合、その流通先や、改変などといったものは、原著作者はもちろん、マルチメディア・ソフトをつくった製作者でさえも把握・管理できないことがあげられる。
また「美術の著作物」や「写真の著作物」とした場合でも、「原作品による展示権につ
いては、オリジナルがデジタル形式で記録されている著作物の原作品とは何か、複製物とは何か」20)といった問題が生じてくる。
次に「インタラクティブ性」についてであるが、著作権審議会のマルチメディアの定義を今一度振り返れば、インタラクティブ性とは「単なる受動的利用ではなく使用者の自由意思で情報の選択、加工、編集等ができる双方向性を備えたもの」ということである21)。
インタラクティブ性を持つメディアは、マルチメディアになって初めて登場したわけではなく、ビデオゲームやデータベースにおいてもインタラクティブ性という要素は存在した。しかし近年では、「電子技術の高度化と普及に伴い、ユーザーによる著作権のインタラクティブ消費(例、ゲーム、ザッピング・テレビ)が日常化して」22)きており、マルチメディアの登場によってその度合いが一段と加速されるであろうことは明白である。そしてこのことは「オリジナル優先主義にもとづく著作物概念について、大幅な変更を迫るもの」23)である。
マルチメディア・ソフトでは、従来のメディア以上に、非常に広範囲な情報の享受や複雑な出力形態を可能にする。そして、その「高度なインタラクティブ性」24)は、デジタルメディアであるが故の改変の容易さと加わって、著作者人格権や同一性保持権に大きな影響を及ぼす。
まず第一に、マルチメディアが登場することによって、かつては一方的に受け取るだけにすぎなかった情報というものを、誰もが発信することが可能になったということ、すなわち、万人が著作権者になることの意味するものを考えるべきである。こうなると、「従
来のように、私的使用の目的の複製とそうでない複製との区別は事実上意味を失う」25)ことになる。また実際の利用面でも、第一に、「ユーザーの中には著作権についての十分な知識を持っていないものもおり、著作権者名を明記せずに、自分や他人のネットワークを通して流通させ、著作権を侵害したり26)、許諾を得るべき著作権者がわからなくなるという状況が起こりうる」27)危険性が高くなる。第二に、同一性保持権に関しても、「ユーザーは多くの作品を入手できることから、編集、加工する対象が増え、さらに、同一性保持権の侵害が発生しやすく」28)なる。第三にマルチメディアでの高度なインタラクティブ性はネットワーク上において複数の人間と同時にコンタクトをとることが可能であるからして、ネットワーク上で複数の人間によって一つの共同著作物が作成される場合が増大し、その場合に「各々の権利者は他の共有利用者の許諾を得ないと複製・改変ができないので、
利用に支障をきたすおそれがある」29)といった権利処理の問題などが生じてくる30)
以上のことを前提とし、次章より各種報告書を基にマルチメディア著作権に関する法政策について検討する。
3. 現行制度の問題と解決策
前章までにおいて、著作権とマルチメディアの関係を解説したが、これらを基に、本論文ではこの後、二つの報告書を検討する。
一つは1993(平成5)年11月に出された、著作権審議会マルチメディア小委員会の『第一次報告書』であり、もう一つは1994(平成6)年2月に出された通産省の外郭団体「知的財産研究所」の『Exposure(公開草案)』である。また、知的財産研究所では、この『Exposure(公開草案)』を基に4月にシンポジウムを開催しており、そこでの意見も併せて検討する。
ここでこの二つの報告書を検討する理由は、この二案が、現行著作権法の今後の運用に関して、異なる立場での提案を行っているからである。
すなわち、著作権審議会の報告書は現行著作権法を原則としてそのまま維持し、著作者人格権を現状のとおり認める方向のものであるのに対し、一方の『Exposure(公開草案)』では、著作者人格権を制限すべきであるという立場に立っている。これはそのまま現在の学説の対立でもあり、著作物の提供者たる著作権者側とそれを利用するユーザー側の意見の対立でもある。
よって、本論文では、それぞれの意見を代表するものとしてこの二つの報告書について検討する。最初に文化庁の著作者人格権審議会『報告書』、次に知的財産研究所の
『Exposure(公開草案)』の順で、検討する。
3.1 著作権審議会『報告書』
3.1.1 同『報告書』 要旨
著作権審議会マルチメディア小委員会の『第一次報告書』には、著作権上の問題点として、以下のような問題点を指摘しており、それらは、大別すると、次の二点に集約される。
その一つは、1章3節.1に記載されている「マルチメディア・ソフトに関する権利のあり方についての制度上の問題」であり、これらは引き続き検討課題とされている。もう一つは、2章4節・5節に記載されている「権利の集中管理についての問題」である。本論文の対象になるのは前者の部分である。後者の部分に関しては本論文の対象外のため、さしあたってここでは、同委員会が「著作権権利情報集中機構(仮称)」の設立を提言していることのみ記述しておく。
まず、『報告書』に記載されている問題点から検討を行う。
『報告書』は「マルチメディア・ソフトに関する権利のあり方についての制度上の問題点」として次のような指摘を行っている31)。
第一に、マルチメディア・ソフトの著作物性については、マルチメディア・ソフトにも、著作権法第2条の「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」という著作物の定義は当てはまり、マルチメディア・ソフトが著作物であることは疑いないとしている。マルチメディア・ソフトは現行法下では、「データベースの著作物」「編集著作物」「映画の著作物」「コンピュータ・プログラムの著作物」のいずれか、もしくはこれら複数の著作物として保護することが可能であるとしながらも、問題として検討しなければならないのは、「これらはマルチメディア・ソフトの特徴とされるメディアの統合とインタラクティブ性からとらえたものではないので、これらを考慮したときに「マルチメディア・ソフトの著作物」というカテゴリーを新たに設けることの必要である」と述べている。
第二に、マルチメディア・ソフトに係る権利の帰属については、「マルチメディア・ソフトの製作には多くの人が係わってくる。その主なものをあげても、システムエンジニア、プログラマ、プロデューサー、シナリオライター、ディレクター、デザイナーなど、実に多岐にわたる。こうして、多くの人の手を経て完成したマルチメディア・ソフトはこれらの人々の共同著作物、もしくは、法人著作物になるであろうが、今後、マルチメディア・ソフトに関するスムースな権利処理を考えるとき、マルチメディア・ソフトの企画・製作の主体者(マルチメディア・プロデューサーという呼称を用いる人もいる)に権利を集中させるような特別規定や、法人著作の成立要件等についての何らかの特別規定を設ける必要性があるかという問題が生じる。」と示している。
第三に、情報のデジタル・データ化及び有線送信事業者の評価については、「著作隣接権的な権利としては、著作物をデジタル・データ化する場合に、デジタル・データをそのまま複製することを禁止したり、また、ネットワーク通信によりマルチメディア・ソフトが提供される場合にも、有線送信事業者に、放送事業者、有線放送事業者の場合と同様に、保護を与えるべきではないかという問題がある。」と記している。
第四に、マルチメディア・ソフトの利用に係る権利の内容については、「現行法では、映画の著作物又は美術の著作物若しくは未発表の写真の著作物に、頒布権及び展示権が認められているが、マルチメディア・ソフトの場合にはどのようにすべきかが問題となる。なぜなら、頒布権については、著作物の円滑な流通に配慮しなければならないということ、展示権については、マルチメディア・ソフトでは、原作品(オリジナル)と、複製物の区別がつかないことがあるからである。」と指摘している。
第五に、マルチメディア・ソフトの利用に係る権利の制限については、「マルチメディア・ソフトは利用者が、ソフトを複製・加工するのが容易なため、ソフト内に複製されている著作物も含め、私的複製等について再考する必要性がある。」と主張している。
さらにその他の問題点として、「マルチメディア・ソフトを製作するためのソフト、すなわち、オーサリング・ソフトの製作者に対する権利をどうすべきかという問題がある。現段階では、彼らは権利主張を行っていないため、問題は生じていないが、今後の対応の考慮の必要性がある。」と指摘している。
だだし、この点については同時期に発表された、『著作権審議会第9小委員会(コンピュータ創作物関係)の報告書』にある記述を参照する必要がある。
同報告書によれば、「コンピュータ創作物の著作物は、通常の場合、具体的な結果物の作成に創作的に寄与した者、すなわちコンピュータ・システムの使用者であり(だだし、使用者が単なる操作者にとどまり、なんら創作的寄与が認められない場合には、著作者とはならない)、プログラムの作成者は、プログラムが、コンピュータ・システムとともに使用者により創作的行為のための道具として用いられるべきものであると考えられるため、一般的には、コンピュータ創作物の著作物とはなり得ない(だだし、プログラムの作成行為と使用者の創作行為に共同性が認められるならば、共同著作者となり得る場合もある)」32)とある。この報告書の趣旨に添えば、オーサリング・ソフトの製作者には著作権が認められないことになる。
私見としては、第9小委員会(コンピュータ創作物関係)の意見に同意する。今後、マルチメディア・ソフト製作のためのオーサリング・ソフトは、大量に普及することが予想され、一般の個人ユーザーのレベルにおいて、現在のワープロ・ソフトのように、各自が好みのものを選択し使用するようになるはずである。とすれば、オーサリング・ソフトの製作者に、それによって製作されたマルチメディア・ソフトの著作権までをも認めることは、ワープロ・ソフトの製作者に、そのソフトによって作成された文書の著作権を認めるのと同様のこととなり、非現実的なものとなる。オーサリング・ソフトの製作者の権利は、「コンピュータ・プログラムの著作物」の製作者の権利によって十分に保護できるはずである。
3.1.2 マルチメディア・ソフトの著作物性に関する議論
前項に要約を示した、文化庁・著作権審議会『報告書』が引き続き検討するとしている課題の内、その最も大きな問題であると思われる「マルチメディア・ソフトの著作物性」に議論を絞り、考察する。
前述のように、同審議会『報告書』は、現行著作権法の規定を前提としたものである。その上で、「マルチメディア・ソフトの著作物」という新概念を設けるべきかを検討する必要があると述べている。したがって、本論文でもまず、「マルチメディア・ソフトの著作物」という概念を新たに設立すべきか否かについて考察する。
3.1.3 マルチメディア・ソフトの著作物性を現行法の権利の範疇で考えた場合
「マルチメディア・ソフトの著作物性」について、既存の学説を紹介しつつ、まず、現行法に記載されている権利の枠の中で考察し、批判的な検討を加える。
『報告書』にもあるとおり、現在の有力な説は、マルチメディア・ソフトの著作物性を、現行法に従って処理するならば、「データベースの著作物」「編集著作物」「映画の著作物」「コンピュータ・プログラムの著作物」の四つのいずれか、もしくは複数の著作物として処理することが出来るであろうというものである33)。
この立場に立つのが、弁護士の伊藤真34)であり、彼はマルチメディア・システムに関する法的保護は「個々の情報自体の保護は、その素材が曲であれば、音楽の著作物として、動画であれば映画の著作物としていうように素材である著作物に応じて法的保護が図られる。」「マネジメントソフト35)自体は・・コンピュータソフトの著作権の保護を受ければ足りる」「情報素材の総体としてのマルチメディア・システムの保護・・データベース著作物として著作権の保護を受けると考えるのが自然であろう。それにとどまらず・・映画の著作物ととらえることもソフトの内容によっては可能である」としている。
逆に弁護士の木村孝は、黎明期であるマルチメディアに対して、「今後、どのようなものが飛び出してくるか分からない今の時点で、「マルチメディア・タイトルについて著作権法上の性格づけをしてしまうのは、不可能だし、むしろ有害ではないかと思われる。」36)とマルチメディア・ソフトに対する現時点での著作権法上の性格づけに否定的である。
一方、現行の定義では不十分であるという説もあり、この点については検討を加えたい。弁護士の松田政行37)がこの立場で詳しい検討を行っている。次に松田の論文を中心に見ていくことにする。
まず、松田は「編集著作物として見た場合」について検討している。彼は「編集著作物は、「材料を収集し、分類し、選別し、配列するという一連の行為に知的創作性を認めている38)」ので、様々な分野からいろいろな情報を集めてマルチメディア・ソフトをつくっても、それは著作物として立派に保護できるであろう」とし、「ここで問題にされるべき点は、基本的構成が同じで、内容が違うものをつくった場合に著作権侵害が成立するかどうかである」という問題を指摘している。
これを踏まえて、松田はマルチメディア・ソフトの著作物という概念をつくり出す必要性の一つとして、「素材のみの著作権では保護できない場合が有りうる。すなわち、素材については全く別異なものの供給を受け、それ以外すなわちタイトルの全体を統括した構成や流れ、ないしは素材を提供するインターフェース部分の表現方法をコピーし、さらにインタラクティブの方法を流用することによって外形的には別個のタイトルが成立したかのように見える場合がある。しかし、これは素材だけを入れかえた複製であって、違法の法的評価を与えられるべきものである」という場合を示している。
マルチメディア・ソフトの場合、ソフトを製作するためのソフト、すなわちオーサリング・ソフトが同一の場合にはこのようなことが生じることが予想される。
しかし、この松田の意見は、加戸の「編集著作物の保護が、純粋な編集方法というアイディアを保護するのではなく、具体的な編集物に具現化された編集方法を保護するもの。」39)という考えや、『著作権審議会コンピュータ創作物小委員会の報告書』による、「具体的な結果物の作成を行った者が著作者たりえる」40)という見解とは相反するものになる。
筆者は、加戸説に従って考えれば、松田が言う、「タイトルの全体を統括した構成や流れ、ないしは素材を提供するインターフェース部分の表現方法をコピーし、さらにインタラクティブの方法を流用する」こととは、単なるアイディアの模倣であり、著作権侵害にはならないものと考える。また、3.1.1 で述べたようにオーサリング・ソフトそのものの著作権は「コンピュータ・プログラムの著作権」で保護できるはずであると考える。
さらに松田は、「編集著作物の最大の法的な問題点は、編集著作物としての思想・感情は何かということである」とし、マルチメディア・ソフトの場合、ものによってはそれが読みとれない場合があるのではないかと危惧しているが、筆者はそのようなことはないとみる。なぜならば、何の目的も思想も無く、素材になりうる著作物を収集するなどということはあり得ないからである。
加えて筆者は、「編集著作物」に関する第12条 第2項の条文に対して以下のように考える。
同条文は、編集著作物の著作権はそれを構成する個々の著作物の著作権に影響を及ぼさないことを明記している。従来の編集著作物ではいったん完成したものが、再び素材となって流通することは殆どあり得なかったが、マルチメディア・ソフトの場合はそのような改変が繰り返し行われることになる。よって、マルチメディア・ソフトの場合、改変が重ねられる度に以前に作られたプロダクトからさらなる別のプロダクトが生じるため、そのソフトに著作権を有する著作者の数が増えることになる。これはそのまま権利処理の複雑化につながるものであり、マルチメディア・ソフトの製作に当たって、権利処理を容易にすべきであるという著作物審議会の意向と、明らかにそぐわないものである。
次に松田は、「データベースの著作物としてみた場合」について論じている。松田は、「データベースの著作物としてみた場合は、データベース型の著作物以外には当てはまらないことになる」と述べているが、筆者はマルチメディア・ソフトの場合、程度の差こそあれ、データベース的要素を含んでいるはずだと判断している。従って、前述のような問題を指摘する必要はないはずである。
そもそもデータベースというものを「編集著作物」から切り離して別個の著作物として制定した趣旨が、「データベースの作成に当たっては、コンピュータにより容易に検索ができるようにするため、情報の体系づけをしたりキーワードを付したりというような従来の編集著作物における素材の選択、配列とは異なった知的作業が加わっており、それがデータベースの重要な要素を成している」41)ことにあると解されていることを考えれば、マルチメディア・ソフトは「編集著作物」として保護されるよりも、「データベースの著作物」として保護した方がなじみやすいと思われる。
データベースが「データベースの著作物」として保護される所以は、データの「体系的な構成」にこそある 42)のであり、マルチメディア・ソフトの場合、それがどこまで存在するかを検討してみる必要がある。
この件に関して筆者は、マルチメディア・ソフトの場合にも体系的な構成は存在するが、それはデータベースとは別の方法で機能するものであると考える。すなわちデータベースは製作者の付与した「体系的な構成」の範囲の中で、ユーザーがそのプロダクトを利用するものであるが、マルチメディア・ソフトではユーザーはプロダクト製作者の付与した「体系的構成」を越えて、そのプロダクトが持つ体系性を駆使できるような構造になっているからである。これはデータベースの体系性は、製作者が管理できるように固定され閉じられたものであるが、マルチメディアの体系性は、製作者の管理しえない可変的な開かれたものとなるという技術的特徴に由来する43)。これがマルチメディアに備わった「高度なインタラクティブ性」の意味である。したがって、体系的な構成という要素をその保護の第一理由とするデータベースの著作権も、マルチメディア・ソフトの保護には不十分なものであると言える。
松田はさらに、「映画の著作物としてみた場合」について議論をすすめている。筆者もそれに従い「映画の著作物」としてみた場合について検討してみる。
マルチメディア・ソフトを「映画の著作物」として扱う最大のメリットは、映画ではプロデューサがその著作権を所有するのと同じく、マルチメディア・ソフトの全体的形成に創作的に寄与した者、すなわちマルチメディア・プロデューサがそのソフトの著作権を有するとすることによる、権利関係の明確化であろう。
だが、その他の映画の著作物に課せられる条件に関しては、不都合なことがいくつか生じる。その最大の障壁となるのが「頒布権」の問題である。
映画には著作権者が先々の配給先までをもをコントロールすることができる頒布権が存在するが、人の手から人の手に改変を重ねながら渡っていく可能性のある、マルチメディア・ソフトにおいてその流通を著作権者がコントロールする事は非常に非効率的であり、現実には不可能である。松田もこの頒布権に関しては、はっきりと「必要はないもの」としている。筆者も全く同意見である。
松田が論じているさらにもう一つの問題点が、そもそも「映画の著作物」になりうるかどうかに関わる「固定」という概念についてである。松田は、「映画としての保護が可能か否かはマルチメディア・タイトルの特徴であるインタラクティブの点にある」44)とし、ユーザーの操作いかんによって出力形態が千差万別に変化するマルチメディア・ソフトにおいて、「一定の映像・音声の連続が固定していること」いう著作権法上の要件(第2条3項)を満たすかどうかという点を疑問視している。筆者もこれに関して検討する。
ビデオゲームは、コンピュータの利用者の操作いかんによって、その出力結果に違いが生じてくるものである。ビデオゲームは、松田が例を挙げているパックマン事件判決(東京地裁昭和59年9月28日判決・判例タイムズ 534号 246頁)や、それ以外にも、ディグダグ事件判決(東京地裁昭和60年3月8日判決・判例タイムズ 561号 169頁)、再度のパックマン事件判決(東京地裁平成6年1月31日判決・判例時報 1496号 111頁)が示すように、「映画の著作物」として認められている。これはその各種流れの映像を作り出すプログラム全体が、ROMの上に固定されているとみなされたからである。よって、マルチメディア・ソフトにもこの論理を当てはめることにより、「映画の著作物」とみなそうという考えが存在するわけである。
私見としては、CD−ROMで供給されるようなパッケージ型のマルチメディア・ソフトに関しては、ユーザーが使用する際にいくらその選択肢が広がり、いろいろな出力パターンが存在したとしても、それは、そのソフトを製作した者が想定していた範囲を超えることはありえないために、その場合、「映画の著作物」であるための要件である「固定されている」という条件を満たすことになり、「映画の著作物」としてとらえることは可能である。しかし一方で、松田も「インタラクティブ性が高まれば高まるほど、出力されるものの固定性というものが益々希薄になる」45)と述べている。とすれば、これがオンラインで結ばれたネットワーク型のマルチメディア・ソフトになると、それの持つ高度なインタラクティブ性のために、「データーベースの著作物」としての考察の項で述べたように、そのソフトの製作者でさえも、全ての出力パターンを前もって把握しておくことは不可能であり、もはや「物に固定されている」とは言いがたいであろう(この場合、製作者の立場は単なる素材提供者になりうる)。パックマンのような従来のビデオゲームは、松田も述べているように、たとえどんなシーンであろうとも「一見すればパックマン事件の映像と認識できる範囲内」でそのストーリーやキャラクターを改変することしか、利用者はできなかったが、ネットワーク型のマルチメディア・ソフトの場合ではユーザーが全く新規のストーリーやプロダクトを製作することが可能であるため、一見しただけで、そのオリジナルのマルチメディア・ソフトが何であるか、またその製作者が設定していた範囲はどこまでなのかを判断することが困難になる可能性がある。
松田は第四に、「コンピュータ・プログラムの著作物としてみた場合」について論じている。
マルチメディア・ソフトがコンピュータを間に介在させなければ、人に認識できないものである以上、それはコンピュータ・プログラムとしての性格を持つものである。この点について、一般のコンピュータ・プログラムとマルチメディア・ソフトでは、どこが異なるのであろうか。松田はマルチメディア・ソフトでは「情報の量から考えると情報量は画像・音声その他の情報がきわめて大きなデータ量を取得し、コンピュータ・プログラムの部分が、割合少ない部分となるのではないか」と言っている。当然、音楽や画像などが頻繁に使われているソフトになればなる程、このデータの部分は増えることになる。現状では、松田が言うように、「コンピュータプログラムそれ自体の中に記載されている各種データは、この部分について著作物が存在しないというのではなく、コンピュータプログラム全体で保護されるものとなっている」。筆者は、このデータの部分がプログラムの大部分の領域を占めるようになった時、ちょうど音楽を再生するためのCDプレーヤや録画したドラマを見るためのビデオデッキのように、マルチメディア・ソフトにおいては、コンピュータはソフトを閲覧し、さらには加工するための一つの道具にしかすぎないと考えなくてはならなくなり、そのようなレベルのものを「コンピュータ・プログラムの著作物」として扱うことは、はなはだ不都合であると考える。
3.1.4 「マルチメディア・ソフトの著作物」という概念の必要性の考察
以上のようなことを考慮すると、既存の著作物の範囲では、全く当てはまらないわけではないが、さらに適合しない部分があるという結論が導き出される。松田は現段階では「データベースの著作物、編集著作物、映画の著作物、コンピュータ・プログラムの著作物のそれぞれをマルチメディアタイトルの性質に合わせて適用するのが妥当ではないか」と述べているが、筆者はこれが通用する場合、すなわち松田の言う現段階とは、せいぜいパッケージタイプのソフトを用いる閉鎖型のマルチメディアまでであると判断する。したがって、さらに発達した、ネットワークを介在してのマルチメディアになると既存の著作物概念では、もはや対応できないであろう。
そこで、筆者も「マルチメディア・ソフトの著作物」という新たなる概念を新設すべきではないかと考える。
松田は前述の理由46)以外に、マルチメディア・ソフトを一つの著作物として保護すべきである理由として、以下のような理由を挙げている。第一は、「マルチメディアタイトルが提供する製作者の思想・感情と素材それ自体の思想・感情は全く別異のものであって、素材データの保護のみでは十分に法的評価がされているとは言えない。」というものであり、第二は「素材についての著作物性が肯定されるとしてもこれらはマルチメディアタイトルの製作者が自らつくるのはまれであって、他からの供給を受けるものがほとんどである。権利主体を別にするのであるから素材のみの保護では十分とは言えないという点がある。」というものであり、第三は「この第三者から供給される素材の著作権を常にマルチメディアタイトルの製作者が主張しうるとは限らない。一般にマルチメディアタイトルの製作者が、素材を契約関係で取得する場合にはその不正コピーが生じた場合について、マルチメディアタイトルの製作者の側で処理することが義務づけられているのであり、素材の著作権者と独自に行動の取れる権利関係を創設する必要性があるからである。」というものである。
さらにマルチメディア・ソフトが、ネットワーク上で流通した場合にはもはや既存の著作物の枠の中でとらえることは不可能であり、そうなった場合には、紋谷暢男も「新しい著作物としての位置づけが必要」47)であるとしている。
筆者自身も松田や紋谷と同じく、マルチメディア・ソフトを既存の著作物の定義とは別の、一個の著作物として保護する方が望ましいと考える。マルチメディア・ソフトを新たなる著作物とすることによって、権利者が行使できる権利、利用者が許諾を得るべき権利が明確化され、権利処理がスムーズに行くはずである。このことによって、「マルチメディアの著作物」という概念を設定しない時よりも、著作権者の権利を損なうことなくマルチメディア・ソフトを流通させることができる。クリエータも、自分の作品が上述の四つの著作物のカテゴリーのどこに属するかなどといったことをわざわざ考慮する必要がなくなり、製作意欲を損なうことなく新たなるソフトをつくりだすことができる。また、マルチメディアが今後どのように発達するかが予見不可能であり、現段階でマルチメディア・ソフトを同様に扱うか決めるべきではないと言う意見に対しては、筆者は今後いかようにも発展する可能性のあるものであるからこそ、早くからそのための専用の保護領域を設けて、その発展可能性を妨げないように保護すべきであると主張する。
なお一方では、アメリカのように「視聴覚著作物(audiovisual work)」として一様性にとらても、あるいはわが国のように「データベースの著作物」「編集著作物」「映画の著作物」「コンピュータ・プログラムの著作物」のいずれかであるとして多様性にとらえても、「それら二つの方向の意味するところは、表現(情報を構造化する形態)を保護する法システムとして、結果的には同一の機能を有するものに収束することになろう」48)という見解もある。この収束する形が、IITFのレポートが示唆するように著作物の区分の壁をなくしたものになるのか、「マルチメディア・ソフトの著作物」という新たなカテゴリーを創設するものになるのかは定かではないが、いずれにせよ、既存の著作物の定義のままではいつかは対応できなくなるということであろう。私見としては、この仮説が事実であるとするならば、なおのこと消極的に成り行きを見守っているより、積極的に法制度を整備してくことの方が良策である考える。
「マルチメディア・ソフトの著作物」のカテゴリーの中では、頒布権のような著作権者がその流通の先々までコントロールできる権利は認めるべきではない。そのような権利をわざわざ認めなくても、審議会が提唱するような権利処理機構を設立し49)、著作物を登録し、それを利用するシステムをつくれば著作権者の利益は守られるはずである。
著作権法は新しいメディアが登場する度に、それにあわせて少しずつ改正されてきた。昭和60年、コンピュータ・プログラムという新たなる保護対象の出現にあわせて、それを第10条の著作物の例示の中に加え、昭和61年には、データベースを保護するために第12条の2を追加し、さらにはDAT(Dajital Audio Tape)によるデジタル式録音に対応するために平成4年に、第30条第2項を設けたのであるならば、今またマルチメディア・ソフトという新たなるものを一個の著作物と認定することに問題はないはずである。
3.2 知的財産研究所『Exposure(公開草案)'94』
3.2.1 『Exposure(公開草案)』の意見要旨
マルチメディア著作権に対応した、まとまったレポート形式になっているものとしては、文化庁の報告書の他にさらに「知的財産研究所」の発表した『Exposure(公開草案)』50)がある。このレポートは、いくつかの点で、文化庁の『著作権審議会報告書』と見解を異にしているところもあれば、また同様の見解を持っているところもある51)。まず、その要旨を示す。
同『Exposure(公開草案)』では、「マルチメディア・ソフトの製作・流通過程においては、(1)素材となる著作物の権利処理を巡る問題と、(2)著作者人格権(同一性保持権)を巡る問題の二つがある」としている。このうち(1)の「素材となる著作物の権利処理を巡る問題」に関しては、本論文の直接の検討課題ではないので、ここでは、簡単に述べるにとどめる。その概略は以下のようなものである。
第一に、素材となる著作物の権利処理を巡る問題については、「素材の権利者及び製作者・利用者の双方が異なる懸念を有している」としている。
これについては、「権利者側は、複製や改変の容易さからくる権利侵害の虞の増大を懸念し、さらにそのためにデジタル化に躊躇が見られるという点が問題」であるとし、一方、「利用者・製作者側は、マルチメディアソフトウェアの素材となる全ての著作物に対し、著作権者と権利処理を行うことは、非常に困難かつコストがかかるものであることを問題」とし、「権利処理が適正に為されなければ、自由な改変加工が可能であるというマルチメディアの特質を享受できない」としている。
このような問題に対処するため、提言として「デジタル情報センター」の設立を提言している。「センターでは、権利者は任意に権利の登録を行い、利用者はその著作物を対価と引きかえに、加工・改変を含め自由に利用できる」ものとし、「センターは利用料の徴収分配の仲介や利用者への情報提供をするもの」としている。
第二に、著作者人格権(主に同一性保持権)を巡る問題の所在については、以下のように述べている。まず技術的背景として、「デジタル技術の進歩により、著作物が改変加工される機会は、飛躍的に増大することが予想される。しかし、改変加工という行為一般に対して同一性保持権が行使されるとすれば、自由な改変加工を可能にするデジタル技術のメリットが生かされず、インタラクティヴな利用を特徴とする、マルチメディア・ソフトウェアの利用は不可能になる。」と述べており、改変・加工の容易をマルチメディア・ソフト著作物の特徴としている。そして、既存の著作物を利用した新たな作品の「製作のインセンティブを抑制する」ことに危惧を示している。
このことを前提とし、次の二点を、マルチメディア・ソフトの製作・利用時に具体的に問題になることとして指摘している。
まず、同一性保持権の不行使特約という考え方を示し、「既存の著作物を素材として利用するマルチメディア・ソフトの製作者が著作者と著作物の改変加工について契約する際に、同一性保持権の不行使特約が有効であるか否かが、実務上大きな問題となっている。また、個々の利用者がソフトウェアのインタラクティブな利用を可能にするためには、その同一性保持権の不行使特約の効果を利用者に及ぼすことが必要となる。」52)と主張している。
次に、同一性保持権の及ぶ範囲の広さについても触れ、「わが国著作権法20条の規定する同一性保持権は、著作者の「意に反する改変」に及ぶ」としており、したがって、「マルチメディア・ソフトウェアの製作、利用の態様が、著作者の名誉又は声望を害さないものであっても、その改変が著作者の意に反していれば同一性保持権により差し止めれれることになる。」と述べている。
この二つの問題点を踏まえ、草案では、法政策案の提案を行おうというものであるが、そのために、比較の対象として、まず海外の事情を述べている。
これを次頁に表としてまとめる。
各国の著作者人格権に関する規定
|
ベルヌ条約 |
アメリカ |
イギリス |
ドイツ |
フランス |
日本 |
著作者人格権
(同一性保持権) |
○
|
美術のみ
明文化 |
○
|
○
|
○
|
○
|
著作者人格権
の放棄
|
規定なし
|
○
|
○
第三者効
も認める |
|
|
??
|
関連条文
|
6条の2
|
106条のA
|
80,87条
|
14条
|
6条
|
20条
|
※弁護士の吉田正夫の分析によれば、common law の国である米英に比べ、「大陸法の国では、変形又は損傷について、「あらかじめ同意することはできない」とするフランスを典型として、同一性保持権に強い保護を与えている」とされる53)。
『Exposure(公開草案)』では、法案の作成段階において、アメリカやイギリスの制度を高く評価しており、それを参考に日本の制度も変えるべきであるとしている。54)
参考にすべき米英の制度とはすなわち、同一性保持権の不行使特約を有効に行うことを明文化し、かつ同一性保持権の及ぶ範囲を名誉毀損の場合に限定することである。そして、これは「諸外国との知的財産ルールのハーモナイゼーションをみだすものではない」としている55)。
以上のことを踏まえ、「著作者の人格的利益の保護とデジタル技術の進歩との調和を図るため」に、同草案では次の二案を提言している。まず、第一案とは、「同一性保持権の不行使特約の有効性の明確化及び第三者効の創設」として「a)著作者は、他人に対し、著作者の名誉又は声望を害さない限り、その著作物の同一性保持権を行使しないことを承諾することができる。b)前項の承諾の効果は、反対の意思表示のない限り、承諾を得た者から許諾を得た者、権利の継承人にも及ぶものとみなす。」というものであり、第二案は「同一性保持権の及ぶ範囲の限定」として「同一性保持権の及ぶ範囲を著作者の名誉又は声望を害する改変に限定する。当面の対応としては、特にデジタル化された著作物について加工・改変の機会が多いことに鑑みデジタル化された著作物に限り、このような規定を行うことも一案である。」というものである。『Exposure(公開草案)』はこの二案の内のいずれかを実行すべきであるとしている。
なお、知的財産研究所では、この草案をたたき台としてマルチメディア時代の新たなるルールを構築する努力をしており、そのための国際シンポジウムなども行っている。本論文では、3.2.3(1) で、そのシンポジウムの発案者の議論を扱う。
3.2.2 文化庁・著作権審議会報告書との比較
ここで、さきの文化庁・著作権審議会『報告書』とこの知的財産研究所の『Exposure(公開草案)』を比較する(ただし、3.1.1 で述べているとおり、権利処理機構、デジタル情報センター等に関する記述の部分はここでは議論の対象からはずすこととする)。
すでに述べているとおり、文化庁・著作権審議会の『報告書』の場合はあくまでも、現行著作権法のもとに議論がなされており、できるだけ法改正などは避けたい趣旨のものであると捉えることができる。つまり、法改正が必要であるとすれば、それは「マルチメディア・ソフトの著作物」というカテゴリーを新たに設ける必要があるかどうかという場所に議論の対象が集中している。これに対して、知的財産研究所の『Exposure(公開草案)』では、抜本的な法改正、すなわち著作人格権の規定の変更を前提としている。
すなわち、著作権審議会の『報告書』が著作者人格権(同一性保持権)を原則維持し、現行法の枠の中でマルチメディア・ソフトを保護していくという趣旨なのに対して、『Exposure(公開草案)』の方は、マルチメディア・ソフトを保護するためには、まず法を改正し、著作者人格権の規定の緩和を行うことが先決であるという意見を述べているわけである(ただし、『Exposure(公開草案)』においても著作者人格権はないがしろにされてるわけではないという点は注意しておかねばならない。それは、レポート中の「新たな技術の進歩があるからといって、安易に著作者の人格的価値が軽んじられるべきではなく、技術の進歩と人格的価値の保護を計るような解決策を検討することが必要である。」という記述56)からも容易に伺える)。
さらに現在の多くの学説もまた、この著作権法の著作者人格権(同一性保持権)の規定を改正して緩やかなものにすべきかどうかという点を中心に、議論が分かれるところのものである。
一般的には、従来の制度を変えてしまうような大きな法律の改正というものはあまり歓迎されるべきものではない。しかし、この『Exposure(公開草案)』に代表される現行法制度の改正を多くの人々が主張していることは、重視されるべき事実である。それらの意見について次項以降で検討する。
3.2.3 著作者人格権の制限に関する議論
以上のような前提をもとに、この後、『Exposure(公開草案)』でも述べられている、マルチメディア著作権法制の議論の大きな柱の一つである著作者人格権(同一性保持権)の改正について検討する。
(1) シンポジウムでの討論
知的財産研究所ではこの『Exposure(公開草案)』を基に1994年4月7日に国際シンポジウムを行っている。まず、そこでの、本草案の趣旨である同一性保持権の修正に関する識者の意見を紹介し、検討する。
同一性保持権の修正を望む声は、従来から実業界に多くある。同シンポジウムでも業界側のパネリストはやはりそのような立場で発言している。
山地克郎(富士通 法務・知的財産権本部)は、「同一性保持権の範囲を限定することが望ましい。限定が出来ないとしても、翻案権の譲渡、或いは、許諾によって、名誉・声望を害さない限り、同一性保持権を行使しないことに同意したと推定可能になると良い。」としている57)。山地は著作権法61条2項の規定すなわち「著作権を譲渡する契約において、第27条又は第28条に規定する権利が譲渡の目的として特掲されていないときは、これらの権利は、譲渡した者に留保されたものと推定する」という規定を持ち出し、逆に翻案を許諾した場合には、同一性保持権の不行使とセットで考えるべきであるとし、法改正によりこのことを明文化することが望ましいとしている。
さらに同一性保持権が制限される範囲についても、デジタル形式に固定されたものだけでなく、(当面はデジタル形式で固定されたものに限定するとしても)アナログ形式のものを含む著作物一般に適用されることが望ましいとしている。
また、青山友紀(NTT知的財産部長)は、マルチメディア・ソフトがネットワーク上を流通することまでを前提とし、「同一性保持権を権利者とユーザーの双方にとって利益のある形で緩和することが重要である」58)としている。その理由は「情報がデジタル化され、ネットワーク上を流通する環境では、もとの情報の同一性を保持したまま利用するだけでは、その潜在的経済価値は十分に発揮されないし、また、同一性の保持を強制することも難しい。」59)というものである。
研究者としては Dennis S. Karjala(アリゾナ州立大学法学教授)が著作者人格権の修正に対して賛成の意を示している。Karjala はマルチメディア・ソフトやデジタル式記録
といったものでは、著作者人格権自体ははたして以前と同様に意味をなすのであろうかという問題提起をした上で、「コンピュータ・プログラムのような機能的著作物や、データベースのような事実に関する編集著作物については、著作者人格権は明らかに意味をなさないように思われます。」「著作物のコピーが記憶されているデジタルの修正によって伝統的な著作物の原著作者にはどのような被害が及ぶのでしょうか。「原本」が著作者の管理下にあり、著作者に管理され続ける限り、著作者に対し新しい著作物の探索の際に2進形を操作させないようにすることを認めることには人格権ないし衡平法上の価値はほとんどないと思います。」60)という見解を示している。
さらに Karjala は 名誉や声望を害するかどうかの判断基準を具体的に定義すべきであるとし、『Exposure(公開草案)』の著作者人格権の修正案よりも更に踏み込んだ意見を述べている。その内容は「デジタル形式で蓄積された著作物の修正は、他に原著作物の複製に複製元として使用できるコピーがある限り、決して著作者の名誉や声望を害するものではない」61)というものである。
私見としては、デジタル化された著作物の流通と権利処理を考慮した場合、この考え方に基づいてシステムを構築することが、最もスムーズにいくのではないかと思われる。よって、この考え方を支持するものである。
これに対し、シンポジウムに参加したもう一人の外国人の研究者 Tomas K. Dreier62)(マックスプランク研究所研究員)はベルヌ条約の遵守を主張しており、従って、著作者人格権の放棄の法的有効性を認めることに強く懸念を抱いている63)。この点においては著作者人格権を事実上排除してもよいとする Karjala の意見とは相対するものである。一方、
Dreier の主張によれば、マルチメディア・ソフトの製作者が著作者の名誉や声望を害するようなやり方で既存の材料を改変することは、正当な理由のないこととしている。
ただし、Dreier は『Exposure(公開草案)』に反対しているのではなく、同一性保持権の不行使特約を認めることが望ましい解決策であるとし、それはベルヌ条約が定める枠の中で可能であるという見解を述べているものである。Dreierによれば、ベルヌ条約第6条の2の「著作者は・・・著作物の変更、切除その他の改変又は著作物に対するその他の侵害で自己の名誉又は声望を害するおそれのあるものに対して異議を申し立てる権利を保有する」とはすなわち、著作者が主張できる著作者人格権の範囲が「著作物の変更、切除その他の改変又は著作物に対するその他の侵害で自己の名誉又は声望を害するおそれのある」場合に限定されるということであり、これ以外の改変は本条項に抵触しないとしている。すなわち、「マルチメディアの製作者に対し、著作者の同意を得た上、マルチメディア作品への組み入れに必要な範囲で改変を行うことを認めるという法的な解決策は、そのマルチメディアの製作者が当該マルチメディア・アプリケーションに組み入れられる既存の著作物に関する権利を正式に取得している限り、ベルヌ条約第6条の2に反しない」64)ということである。
(2) 『Exposure(公開草案)』に対する反対説
『Exposure(公開草案)』への反対説も、当然存在する。弁護士の伊藤真は、「公開草案が想定するような「包括的無限定」(だれが改変しても、どのような目的で改変しても、どのように改変しても)かつ「撤回不可能」(一度承諾した以上、将来改変を禁じることはできない)な形での「著作者人格権の不行使特約」を認めることは、人格的利益について白紙委任状を認めるようなもので疑問と言わざるをえない。」65)と草案への異議を唱えている。
以上五人の意見を表にまとめると次頁のようになる。
『Exposure(公開草案)』に対する各人の意見
|
同一性保持権の修正 |
備考 |
山地克郎(富士通) |
必要 |
|
青山友紀(NTT) |
必要 |
|
Karjala(アリゾナ州立大)
|
不必要
|
複製元として使用できるコ
コピーがある限り名誉・声望
を害する改変にはならない |
Dreier(マックスプランク)
|
必要
|
ベルヌ条約は守るべき
著作者人格権の放棄はよく
ない |
伊藤 真(弁護士)
|
不可
|
著作者人格権の不行使特約を
認めるのは、白紙委任状を認
めるようなもの
|
(3) デジタル化と著作者人格権
著作者人格権の制限を考えるにあたっては、その制限が及ぶ著作物の範囲を明確化しなければならない。
『Exposure(公開草案)』では、当面はデジタル化された著作物に限ってもよいとしながらも、最終的には全ての著作物に対して著作者人格権を緩和すべきであるとしている。
その一方で、この範囲を「デジタル化権」という概念を用い限定しようとする意見がある。これについては、松本恒雄、椙山敬士、田村善之、DAVIS等によっていくつかのの意見が出されている。
詳しくは後で述べるが、これらの意見はその細部において異なるものの、その大筋はデジタル化された著作物に限って著作者人格権を制限するというものである。著作者人格権の制限を主張する意見としては、このタイプのものが主流であり、むしろ全ての著作物に対してそれを求める『Exposure(公開草案)』の提案が最も制限の範囲が広いものと言える。
(4) デジタル化した者への権利保護
デジタル化と著作者人格権の制限について論ずるためには、その前段階として、デジタル・データを作成した者に対して、その労力を評価し、法的保護を与えるかを考察しなければならない。
このことについては、松田政行が、「データ化権」として、レコード製作者の著作隣接権(第96条)のように保護すべきだと主張している66)。この場合のデータ化権では、元々著作権が存在しないファクト・データ(例えば、人口統計や気象記録)などであっても、デジタル化した場合には、そのもの権利が保護されることになる。しかし、伊藤真は、マルチメディア・ソフトに収録された個々の素材情報に関しては、「当然のことながら、個々のデータなど著作物でないものは著作権の保護を受けえない」67)と明言している。
私見としては、各種読みとり装置やセンサーなどが発達した今日においては、デジタル化にはさほどの労力を要するとは思えず、データなどをデジタル化したものに著作権による保護を与える必要はないと判断する。また「情報の社会的コストが膨大になる可能性」68)がある点や「デジタル化の方式が多数存在するため、同一情報のデジタル化に複数の権利が発生し得る」69)ことからも、好ましくないと言える。
(5) 著作者人格権を制限しようという各種意見
松本恒雄は、「アナログ複製権とは別個の支分権として、デジタル化権を法制化すべき」としている70)。
松本は、従来のアナログ著作物の著作者がデジタル化を許諾した場合に、改変等を拒絶する著作権法20条の同一性保持権を失うとすべきだと主張する。そしてさらにその効力は第三者にも及ぶとすべきであるとしている。また同時にその作品のオリジナルからデジタル形式で作成された著作物71)でも、著作物の譲渡がなされたり、複製権が与えられた場合には、デジタル化の許諾が持っていたのと同様の法的効果が発生すると考えるべきであるとしている。この考え方に従えば、マルチメディア・ソフトを製作しようとするものは、デジタル化された著作物を自由に改変して利用することができ、さらにそのマルチメディア・ソフトを利用する者が、それを再度改変することも可能になる。
この場合においては、名誉・声望を害するような改変が行われた場合にどのように対処しうるかを考察する必要がある。この点については、松本は、「民法上の人格権はデジタル化の許諾によっても遮断されない。すなわち、著作者やデータの作成者、被写体となった人の名誉を毀損したり、プライバシーを侵害するような形の改変や利用のされ方をする場合には、これらの者に民法上の差止請求権や損害賠償が認められる。」と述べている72)。
私見としては、この松本のこの説を支持するものである。この方式を用いれば、マルチメディア・ソフトを製作する者は「著作者の意に反した改変に対してクレームを付けられる心配がなくなる」からである。また、マルチメディア・ソフトの製作に当たっては当面の間、新たな著作物をつくるよりも、既存の著作物(すなわちアナログ形式で記録された著作物)を用いる方がはるかに多いはずであり、このような規定を設け、著作者の権利を保護する一方で、既存のアナログ著作物をデジタル著作物として流通させやすくすることは、極めて重要かつ必要なものだからである。
一方、「DAVIS」というコンピュータ・メーカーや電機メーカーで構成する組織は、新規立法によってマルチメディア・ソフトを保護し、同一性保持権の不行使を認めようという試案を発表している。弁護士の佐野稔によって紹介されているこの案73)の最大の特徴は、著作者人格権を放棄した作品のみを対象としようとしているところであろう。すなわち、「自分の作品が経済的(金銭的)価値よりも、人格的(芸術的)価値に重心をおいて評価されることを願う製作者(著作者)」は従来どおりの著作権法で保護し、経済的な流通を前提とした作品の管理・保護を念頭においた法律案であるということである。
一般に、著名な芸術家でも、本当の自分の作品づくりと、取引として、市場に流通させることを目的とするための作品づくりは別なものであることを考えれば、この提案はかなり理にかなったものであると思われる。
この法案でも、データの管理機構をつくり、そこでの集中管理ということでは、昨今出されている他の提案と共通している。以下にDAVIS案の概略を示す。
作品を登録するものは、著作者人格権等の権利を放棄することに同意し、かつ自分の作品が改変されたり、営利目的に使われることを了解しなければならない。そしてある作品を基にして、誰かが新たなる作品を登録した場合、その基となる作品の管理情報(ネットワーク情報や、履歴情報)も一緒に登録される。管理機構は、それら作品の登録や抹消、料金体系の決定、作品利用料の再配分、そして作品の改変経歴をを管理する。作品を登録したものは、自己の作品が多くダウンロードされたり、他の作品に何度も利用されれば、それなりの報酬が戻る仕組みになるわけである。
そうなることによりおのずから権利者が保護されるのは、名誉を毀損された場合や、自己の作品を無断で登録された場合などに限られてしまう。これらは、現行著作権法の中で処理することが可能である。(この法律案は、現行著作権法を修正する必要が全くなく、完全に併存が可能であるとうたわれている。)
本案は「真の情報社会にあっては、ある情報が商業的な利用価値を持つとすれば、その価値が生み出す経済的利益は、当該情報を作り出した者にではなく、当該情報のなかにさような利用価値を見いだした者にこそ、帰属すべきである」という基本概念に基づいているとされている。
文化庁『著作物審議会報告書』にしても、知的財産研究所『Exposure(公開草案)』にしても、また松田の提案にしても、何らかの形で現行著作物法を改正もしくは修正する必要があるとしている。これに対して DAVIS の案では、マルチメディア・ソフトを事前に著作者人格権を放棄した作品として、著作権法のもとから完全に切り離し、量子メディア保護法という新規の法律によって保護すべきであるとしている74)。そのため著作権法の改正を必要とせず、著作権法の中にマルチメディア・ソフト著作物という定義を追加したり、同一性保持権の制限規定を設ける必要はないことになる。
田村善之の意見は大筋において、この DAVIS の提案と技術的バックボーンとして森亮一の「超流通」75)とを念頭において述べられている。すなわち、「従来型の著作権法制と新規の法制をつなぐ媒介項として登録という制度を設ける」76)ものであり、著作権者は「ソフトを登録することにより、デジタル・コピーに対しては排他権を失うが、その代わりにソフトの使用に対する対価徴収権を取得することができる」77)わけである。田村の意見によれば、「ソフトがアナログ・コピーされた場合には著作権法による排他権的行使を失うものではない」78)としている。
弁護士・椙山敬士は、著作権システム(CRS)とデジタルデータシステム(DDS)という2つのシステムの併存を説いている。DDSは、「著作物性のないデジタルデータ及び著作物性があっても、著作者が「DDSの対象となること」を撤回不能で宣言させたデータ」を対象とする。DDSの取り決めとしては「宣言以後、著作権の対象でなくなる。」「悪意の利用の場合を除き、指し止め請求権は認められない。また、人格権は一切認めない。」「既存のデジタルデータを利用して創作性のある作品を作った者が、著作権システム(CRS)の保護を受けたい場合にはCRS宣言をする。」79)といったことがある。
このうち、既存のデジタルデータを利用して創作性のある作品を作った者が、CRS宣言をすることができるという条項は、興味深いものである。例えば、デジタル化された写真画像やイラストなどを基に創作性の高いCG(コンピュータ・グラフィクッス)を製作した場合に、その製作者がそれを一個の芸術作品として扱い、それ以上他人によって改変されることを望まない場合などには、このような仕組みが存在した場合非常に有効であると思える。
以上の意見を整理すると、まず、著作権法の他に新たなる法制度を確立するというものと、現行著作権法を改正して、その支分権として新たなる権利を認めるべきであるという2つの種類に分けられる。前者には田村、DIVISといった意見が当てはまり、後者には松本の意見が当てはまる。椙山のDDS理論は新規立法である必要性は明記してないもの前者側の意見であるとみられる。著作権法と新制度との二本立てで権利処理を行おうとする意見は、椙山も「量、金銭に重点をおいた制度をめざす」80)と言っているように、新たに創設するシステムにおいて、著作物の経済的な流通と、それに見合う対価の徴収を重視していることが特徴である。
3.3 マルチメディア・ソフト著作権に関しての法政策的考察
筆者の考えは、現行著作権法を次の二点において改正するというものである。
一点は、3.1.4 で述べたように「マルチメディア・ソフトの著作物」という概念の新設である。そして、このカテゴリーに属する著作物においては、『Exposure(公開草案)』が提案するように著作者人格権が制限され、改変を行うことができる。
もう一点は、(狭義な)著作権の支分権として、「デジタル化許諾権」を設置する。この権利は、既存のアナログ著作物の著作者のために設けるものである。絵画や写真等の著作物の著作者は、自分の作品のデジタル化を許諾しない限りは、現行の著作権法の規定通りの保護を受ける。しかし、ひとたびデジタル化を許諾したならば、その扱いは「マルチメディア・ソフトの著作物」に準ずるものとする(著作者の死後50年を経過したものについては、自由にデジタル化できるものとする)。
筆者は、マルチメディア・ソフトにおいてはその原著作物がアナログ著作物であれ、デジタル著作物であれ、いったん著作者の手を離れたものを、著作者がその使われ方や流通をコントロールすることは不可能であるという意見を持っている。よって、自分の作品をどのように扱うか、すなわちデジタル著作物、マルチメディア著作物として流通させるかどうか、改変を認めるかどうかを、著作者がその作品を公表する段階において、一番最初に決定し、それを流通の最終過程まで一貫するのが最良の方法であると言えよう。
とすれば、著作者はその著作物の最初の流通の段階で、それをマルチメディア・ソフトとして流通させることを決心したならば、それはその著作物の改変を認めたこと、すなわち同一性保持権を行使しないことを認めたこととし、その効力が第三者にも及ぶとするのが最良である。
また、著作物の文化的側面、精神的側面から述べても、およそ全ての著作物というものは、公表された瞬間から一人歩きを始め、著作者が表現したかった思想や感情とは異なる評価をされうるという側面も持ち得るはずであり、「意に反した改変」という言葉だけによって著作者人格権の侵害とみなすことはいささか厳しすぎると思われる。こと、改変の度合いや手法が複雑になるマルチメディア・ソフトではこのことにとらわれすぎては、新たなる著作物を創作することは全く不可能になると思われる。
若干、法律論からそれるが、著作物とは元来、多義性を持っているものであり、著作者が表現しようと意図した思想や感情と全く同一の感情しか、見る側(聞く側)に与えないような著作物は、芸術性としての価値は低いと言わざるを得ない。また、優れた作品になればなるほど、それに対する批判も増すものである(ピカソの絵の場合を考えてみよ)。著作物は著作者の手を離れ、世間に公表された瞬間から、著作者が意図した方向とは別の方向へ歩き出すことも多々あるわけである。よって、ただ鑑賞しているだけでさえ、そのとらえられ方が千差万別である芸術作品において、その利用に当たって、著作者の意図した思想や感情との一致を求めることは、その論理構成に無理があると言わざるをえない。さらに、芸術的価値の高い著作物は当然その分野において頻繁に利用され、その分、公衆の面前に触れる頻度も高いことになる。この辺のことは、フェアユースの概念を検討する際に再度問題として取り扱う。
以上のような理由より筆者は、著作権審議会の「マルチメディア・ソフトの著作物」概念の新設、「Exposure(公開草案)」の「同一性保持権の不行使特約の有効性の明確化及び第三者効の創設」、松田の「デジタル化権」という提案を支持するものである。
しからば次に、著作者人格権の制限はどの程度可能であるかという点について検討する必要が生じる。そこで、比較としてアメリカの制度がどの程度まで著作者人格権の制限を認めているかを検討する。
アメリカは長年、著作権関連の法律において著作者人格権に関する明文規定を持たなかった。しかし1989年ベルヌ条約に加盟するに当たり、1990年に視覚芸術家権利法
(VRRA:Visual Artists' Rights Act81))を通過させ、第106条Aとして著作権法の中に取り込んだ。ベルヌ条約はその6条の2(1)において著作者人格権の保護を加盟国に要求しており、それに応じるため、国内法を修正する必要が生じたためである。
第106条Aでは、視覚芸術(Visual Art)の著作物に限って、同一性保持権を認めている。アメリカ著作権法の第101条内に定義されている視覚芸術とは、絵画、彫刻、写真などに限定されており、映画などの動きを伴うような視聴覚著作物(Audiovisual works)は同第106条Aの対象にならないとされている。さらに、ポスターや地図、図表、設計図、本や雑誌、新聞はもちろん、データベースや、電子情報サービス、電子出版なども含まれないことが明記されている。
さらに106条Aはその(a)(2) で、同一性保持権が侵害されたとするためには、著作者の名誉又は声望が害されたという要件が必要だとしている。この点は、著作者から見て「意に反した改変がなされた」ことだけによっても、著作者人格権の侵害が成立すると規定している場合がが多い大陸法の国々と対照的なところである。
結局のところ common law の国であるアメリカでは、大陸法スタイルの権利の制限にはかなり抵抗があったようで82)、連邦議会はそのための最小限の規定を設けるという方法によって、ベルヌ条約加盟のための形式を整えたわけである83)。
このように大陸法諸国に比べて、アメリカの著作権法下では、名誉・声望を害する場合に対して、極めて限定的な記述を行っている(ただし、これは決して名誉・声望を害する改変があり得ないと言っているのではなく、その可能性は少ないながらも、裁判所の判断いかんによっては侵害とされる場合もありえるということである)。
このことから導き出される結論は、現在の国際的な著作権保護制度の枠からそれずに著作者人格権を制限しようとするならば、このアメリカのような規定にならざるをえないということになる。ベルヌ条約の意思を尊重するのであれば、この辺りが限界になるのであろう。
次に、いかなる場合に名誉や声望を害するとするのか、その点について考察する。
日本の著作権法113条第3項が想定している、名誉・声望を害すような著作物の利用とはいかなる場合かをまず見てみる。加戸『逐条講義』によれば以下のような場合を想定している。多少長くなるが、そのまま引用することにする(なお、(1)から(5)までの番号は、便宜上引用者がふったものである)。加戸は、
「 (1)まず、著作者が希望しなかったと思われる場所に著作物を設置する場合がござい ます。たとえば、芸術作品である裸体画を複製してヌード劇場の立て看板に使うと いうように、著作者が本来意図しなかったであろう著作物の利用をした場合であり ます。
(2)次に、文学作品を多くの広告と一緒に出版する場合のように、香り高い文芸作品を 商業ベースの広告・宣伝文書の中に収録して出版する場合が考えられます。
(3)さらには、芸術的な価値の高い美術作品を名もない物品の包装紙に複製するといっ た場合のように、およそ芸術性を感じさせることのない物品包装紙のデザインとし て創作されたかのごとき印象を与える利用のしかたの場合がありましょう。
(4)それから、極めて荘厳な宗教音楽を喜劇用の楽曲と合体して演奏するといったよう に、創作時における著作者の宗教的霊感を感じさせなくする利用の場合がございま しょう。これは、著作者が自己の著作物に与えた生命を殺すような利用行為と考え られます。
(5)また、特殊な例としては、言語の著作物を悪文の例として利用する場合が考えられ ます。いわゆる著作物の創作能力についての評価を傷つけるような使い方をするよ うな場合でありまして、批評・論評の目的を持って利用する場合のようにそれが許 されるケースもございますが、意図的に著作者の名誉・声望を害するように利用し ていると評価される場合は本項に該当するわけであります。 」84)
と述べている。
マルチメディア・ソフトの流通段階においては、上記の場合と類似のケースが頻繁に発生することが予想され、かつマルチメディア・ソフトがネットワークの上を流れ、著作物が今よりも流通しやすくなった場合には、その利用の最終段階においてここに例示されているようなことが、より発生しやすくなることが容易に予測される。
(1)〜(5)のそれぞれの場合を、マルチメディア・ソフトが流通する場合(ネットワーク上で流通することまでも含む)に当てはめて考えた場合、(1)〜(4)の場合を規制するのは、マルチメディア・ソフトの性格にそぐわず、また、マルチメディア・ソフトの流通や利用を著しく妨げることになる。よって、名誉・声望が害されたと判断するのは、(5)のような場合だけに限定されるべきである。
その理由は以下の通りである。
(1)については、今まで再三述べてきたように、いったん流通したマルチメディア・ソフトの使われ方を把握し、コントロールすることは不可能である。特に、ネットワーク上を流れたマルチメディア・ソフトの場合、著作者が希望する場所のみに設置することは不可能である。
(2)については、マルチメディア・ソフトの中には、当然文芸作品も取り込まれるはずであり、それが商業ベースで宣伝用に使われることも当然起こりうるものである85)。しかも、現在考察しているのは、著作者の権利を損なうことなくいかにマルチメディア・ソフトを流通させ、かつそれを商業的にも利用するにはどうすればよいかということであり、これを禁じたのでは議論の余地がなくなる。
(3)については、マルチメディアにおいては芸術性の価値のレベルという概念はむしろ考え難く、高度な芸術性を持つものから、大衆的な要素を持つ著作物までが広く融合することにその特徴や価値があるはずであり、このようなことはむしろ発生して当たり前ということになる。つまり、これを認めないとしたのでは、マルチメディア・ソフトを著作物とする意義がなくなる。よって、この場合に名誉・声望が害されるとするのは、はなはだ不適格である。
(4)については、高度な芸術作品から極めて庶民的なものまで、各種作品を容易に融合し全く新しい著作物をつくれることがマルチメディアの特徴なのであって、これを規制することは、マルチメディアそのものの特徴を活かせないことになる。マルチメディアにおいてはこのことは、著作者が自己の作品に与えた生命を殺すような利用行為では決してなく、新たなる生命を与える行為であると言えるはずである。
(5)のような利用のされ方であるが、これもマルチメディア・ソフトにおいても当然予想されることである。しかしこれはどんな種類の著作物の利用であろうが、決して望ましいことではない。
以上のことから、マルチメディア・ソフトの性質とその予想される利用方法に照らしてみると、その利用の細かいところまで規制を設けるのは好ましいこととは言えず、筆者は(5)のような場合に限り名誉毀損の成立を認めるべきだとするものである。
さらに、マルチメディア・ソフトの場合その改変の容易さから、新たなる作品がパロディ的につくられる場合も多く発生すると予測される。パロディ作品の場合、前述の(1)から(4)に当てはまるような事例が頻繁に発生するはずであり、この場合に、それらを全て名誉・声望を害する改変としていたのでは、現実の利用に全くそぐわないものになってしまい、それはまた自らの作品を公開し世間の評価を問おうとする著作者にとっても望まざる状況となる。よって、マルチメディアの特徴である「高度なインタラクティブ性」から導き出されるマルチメディア・ソフトのメリットを活かすためにも、名誉・声望を害するとする改変の基準を緩和する必要がある。
この点では、3.2.3(1)で紹介した Karjala の「デジタル形式で蓄積された著作物の修正は、他に原著作物の複製に複製元ととして使用できるコピーがある限り、決して著作者の名誉や声望を害するものではない」という意見は、改変が名誉毀損に当たる場合のみ同一性保持権を認めるということまでをも否定する点において、興味深い。マルチメディア・ソフトの場合その改変の容易さ故に、いったん流通すれば、多様に改変されることが予想され、そのうちのどの改変が著作者の意に反する改変であるかを予想することは非常に困難である。よって Karjala の意見は非常に現実に即したものであると言える。先に述べたとおり、筆者は大筋においてはこの意見を支持するものである。
以上のようなことを総括して、筆者は、実際のマルチメディアの運用にあっては、既存の著作権法が示す著作権者の権利、さらには著作者が持つ著作者人格権(特に同一性保持権)の制限を既存制度の中で最大限に緩和すべきであると主張するものである。
しかし、これは既存の制度に大幅な変更を迫るものであり、このような制度の運用がはたして本当に可能であるのかどうか、また、著作者の権利を守ることが可能なのかどうかを、もう一度別な角度から検討してみる必要がある。そこで、この問題を検討するために、次章において、実際に「著作者人格権」という規定ではなく、「フェアユース」の法理に従って著作者の名誉・声望を保護しているアメリカの制度を分析してみることとする。
4. フェアユースに関する考察 − アメリカの法制度を参考にして
本論文の前章において、「マルチメディアの著作物」という概念を新たに設け、その範囲内においては、同一性保持権を制限すべきであるという結論を導きだした。
本章では、そのような制度の運用が可能あるかどうかを検討するために、アメリカのフェアユースの法理について考察する。検討方法としては、フェアユースの中でも、その問題意識が顕著に現れる「パロディ」の問題に焦点を絞り検討する。判例として、マルチメディア・ソフトの著作権問題に応用できると思われる、ラップ・ミュージックにおけるパロディ判決を検討する。
4.1 フェアユースについて
フェアユースは、アメリカにおいて著作権侵害の訴えに対する抗弁として認められているものである86)。
フェアユースの法理とは、「著作物のある著作権を使用するもの(以下使用者という)に対し使用を認めないときの使用者の不利益と、使用を認めたときの著作権者の不利益とを比較衡量し、使用者の不利益が著作権者のものより大きいと、裁判官が判断した場合、裁判官は使用者を救済するため当該使用をフェアユースと認定すること」87)であり、そのであり、その思想は「equity(衡平)の法理」88)に根ざしたものである。
フェアユースが成立する場合であるが、アメリカ著作権法の第107条には以下の四つの条件が規定されている89)。
まず第一に、「使用の目的及び性格」であり、これは特に「その使用が商業性を有するかどうか又は非営利の教育を目的とするかどうかの別を含む」というものである。
第二に、「著作権のある著作物の性質」であり、これは、伝記や報道記事などといった事実に基づくような作品(factual works)よりもSF小説のような創作性の高い作品
(non-factual works)ほど、フェアユースの成立可能性が高くなるというものである90)。
第三に「著作権のある著作物全体との関連における使用された部分の量及び実質性」が問われる。
そして第四に、「著作権のある著作物の潜在的市場(potential market)又は価格に対する使用の影響」が問われる。
以上四つの要素を総合的に判断して、裁判所はその著作物の利用がフェアユースか否か判断する。
これらの条件は、それまでの判例の積み重ねによって構築されてきたものを、1976年の法改正時に成文化したものである。よって、これら四つの要素に優先順位があるわけではなく、さらに、これ以外に新たな判断要素を追加することを否定するわけではない。よって、この四つの基準をもとにどのような判断を下すかは、まさしく case by case と言え、最終的には各裁判官の見解に任せられることになる。
ただし、「著作権者が、侵害を主張し、フェアユースの否定を主張するためには、損害が現実に発生していること、そしてその損害額を立証しなければならない」91)ため、実際の判例においては第四の「潜在的市場への影響」という基準が重要視されることが多いものである。
私見としては、同一性保持権の定義が存在する日本の著作権法では、著作者人格権の侵害に対する損害の請求は、加戸も述べているように、精神的な慰謝料請求にならざるをえず92)、よって、現実の市場への影響があることをもって著作権侵害とするアメリカのフェアユースの方が合理的であると言える。
だだし、マルチメディア・ソフトにおいてはその市場がかなり広範囲に渡ることが予測され、その場合の損害の算定方法を考慮する必要はあるであろう。しかし、これに関しては、マルチメディアの著作権と同時に議論されている「権利処理機構」や「デジタル情報センター」などが整備されれば自然と解決される問題であると言える。
4.2 パロディとフェアユース
この節では、フェアユースの問題が顕著に現れるパロディ作品の問題について考察する。
4.2.1 「Campbell 対 Acuff-Rose 事件」の判旨
米国においてパロディとフェアユースの問題を扱った最近の判例で注目すべきものに、
Campbell v. Acuff-rose Music,Inc.事件93)がある。この事件は 2 Live Crew というラップ・ミュージック・グループが、1964年に Roy Orbison と William Dess が製作して流行したロック・バラード・ソングの「Oh,Pretty Woman」という曲をもじって、「Pretty
Woman」というラップ・ミュージックをつくり、それを「As Clean as they Wannna be」というアルバムに収録し売り出したところ、それがヒット曲となり、原曲「Oh,Pretty
Woman」の著作権を持つAcuff-Rose 社が「Pretty Woman」を発売した Campbell 社を著作権侵害で訴えたものである。アメリカ最高裁は Campbell 側に対してフェアユースの成立を認めた。
最高裁が下したこの事件に対する、前述のフェアユースに関する四つの条件の解釈は、次の通りである。
第一点の「使用の目的及び性格」に関しては、商業目的の使用であるかどうかという点について裁判所は Sony Corp. v. Universal City Studios,Inc.94)の判決をまず引用している。同判決では、商業的な使用では殆どの場合にフェアユースは成立しないとし、商業的な使用時にもフェアユースであると主張する時は、その立証義務は被告側にあるとした。本Cambell 判決においては、裁判所はこの判断をさらに一歩進め、これは単純コピーを行った場合に適用される推論であるとした。すなわち、ただ単に原作品と置き換えるだけのものでなく、どれだけ変形させてあるかということがフェアユースの成立の理論として適当であるとしたものである。よって、2 Live Crew のパロディ・ソングは明らかに営利目的でつくられたものではあるが、この基準を十分満たすとされた。
第二点の「著作物の性質」に関しては、パロディの場合は、そのもととなる原作品が、既に広く一般に知られている必要があり、かつ原作品を模倣しなければ始まらないため、この第二の論点はあまり重要視されないとした。
第三点の「使用された量及び実質性」に関しては、2 live Crew の「Pretty Woman」と
Roy Orbison の「Oh,Pretty Woman」の歌詞が重複する箇所は、歌の歌い出しと一番最後だけというほんの僅かなものでしかないとはしたものの、「音楽」というジャンルでとらえたときには「Pretty Woman」というフレーズの響きをコピーすることはその曲の核心の部分をコピーしているのではないかともし、このような音楽の価値観の領域にまで裁判所は立ち入るべきではないとし、判断を避けた。
第四点の「潜在的市場又は価格に対する使用の影響」についてであるが、ロック・バラード・ソングとラップ・ミュージックとではそもそも、その対象とされるマーケットが異なっており、したがって、互いの市場に影響を与えることはあり得ないとの判断を示した。
4.2.2 判決に対する考察
この判決で注目すべき点として、裁判所が、そもそもパロディにおいては必ず、オリジナル作品から見て批判的評価をされうるものであるとし、原著作者が自己の著作物のパロディ化に対して好意的であることはまずありえないとしたことである。本 Campbell 事件においても、2 Live Crew 側は、事前に Acuff-Rose 側に対して「Oh,Pretty Woman」のパロディを製作し、かつロイヤルティも払う意思表示を示していた。この時 Acuff-Rose 側はその申し入れを拒否している95)。その理由は、ラップミュージックという音楽の形態が、俗語や過激な性描写的な歌詞を多く含むものであるからである。それは、この「Pretty
Woman」にしても、例外ではない。Acuff-Rose 側は Orbison の曲を「ロマンチック」で「幻想的」なもの、2 Live Crew の曲を「性的な欲求をむき出しにする下品なもの」と主張している。すなわち、オリジナルの著作物の表現意図が歪められれ、品位が下がると、Acuff-Rose 側は判断したのである。このことは前章までにおいて議論してきた、日本の著作権法の20条の同一性保持権の規定にも関わってくる問題である。
しかもこのことが、マルチメディア・ソフトにおいては、さらに頻繁に発生しうるものであることは容易に推測できる。改変が容易で、全く異なるジャンルへの転用が多々ありうるマルチメディアの世界では、たとえそれが、ポルノ的なものへ改変されるのではなくても、原著作者が思っていたものとは、全く異なるイメージのものに改変され利用される場合が非常に多くありえる。
しかし、この判決においてそのような改変をも肯定し、フェアユースの成立を認めたことは、マルチメディア・ソフトの製作時にもかなりの場合において、既存著作物の改変を認められることになる。
さらに判例に対する検討を進める。この判決では、それ以前のアメリカにおけるフェアユース裁判96)に比べて、フェアユースの許容される範囲を大幅に拡大し、新たにとらえ直している。
すなわち、既存の著作物を用いて新たなる商業的な派生著作物を製作しようとするクリエータに(許可なく既存作品を利用できるという点において)、フェアユースとして利用できる範囲を広げたことになる97)。本判決において裁判所が確立した新たなる見解は次の三点である98)。
第一に、「著作権が存在する既存の作品を許可なく用いて、新たなる派生作品を製作した場合、たとえその作品が商業性を有するものであっても、フェアユースが成立して、著作権侵害とはみなされない」という点である。
第二に、「その派生作品が、既存の作品をより多く変形したものであればあるほど、よりフェアユースが成立しやすくなる」という点である。
そして第三に、「著作権の所有者は、彼の著作物がもととなってできた派生作品に関するあらゆるマーケットに対して排他的な権利を持つのではなく、その種の作品の権利所有者に慣習的に発達し、かつ与えられてきたマーケットに限って排他的権利を持つ」という点である。
3.2.3(5)でも述べたように、新たなるマルチメディア・ソフトを製作する場合、既存の絵や写真・文字・音楽などを用いることが非常に多い。このため、筆者は、この法理を、今後のマルチメディア・ソフト製作時における各種著作物の改変にも当てはめることができるとすることは、権利処理の過程が非常に簡略化されるという点で積極的な意味を持つものであると判断する。つまり、この判決の結果、既存著作物の著作権者は、自己の著作物に対する利用料を請求できる範囲が縮小されることになる。このことは、それだけ新たに作成された著作物の流通コストが下がることにつながり、これはマルチメディアの普及およびマルチメディア・ソフトの流通という観点からは望ましいことである。
しかも本 Campbell 判決は、パロディ作品の成立要件として、原作品をただ単に置き換え(supersede)ただけではならず、どれだけ変形的(transformative)にしたかによって判断すべきであるとしているが、このことは、フェアユースの成立に対して、新たなる明確な基準を示したものであると言える。
私見としては、「エンドユーザーがパロディ作品に接したとき、そのパロディ作品のもととなった原作品が何であるかを直ちに判別でき、かつ、その相違点を明らかにできる場合には、素材の著作者の名誉・声望を害することはない」という点を考慮して判断基準を設けることが可能であるとするものである。またそのような基準を満たす利用法は、前述のフェアユースの四つの要件を全て満たし得るはずである。
さらに作品そのものの価値という観点から考えた場合、Acuff-Rose も主張したように、自己の作品をパロディ化されると、そのオリジナルの作品の品位が低下し、さらに作者自身の名誉・声望もが害されるというのが、通常の考え方である。しかし私見では、むしろ逆ではないだろうかと推測する。一般に、パロディの対象になるものは、その社会の通念として、価値ありと認め得られたものである。つまりその表現分野において規範的な価値を持つモデルとされているものである。たとえば、和歌における「本歌取り」という行為がそうである。したがって、パロディの出現によって簡単にその存在価値が揺らぐようなものはないはずである。さらにパロディ作品に接した人は、必ずそのオリジナル作品に対しても接してみようとするはずである。よって、自己の作品のパロディを作られたことによって、その原作品の著作者の名誉・声望は害されることは少ないと言える。これも国際知的財産シンポジウムにおける「他に原著作物の複製に複製元ととして使用できるコピーがある限り、決して著作者の名誉や声望を害するものではない」という Dennis S.
Karjala の意見99)を筆者が支持する理由である。
さらに、フェアユースの四番目の条件である「潜在的市場への影響」という面でとらえてみても、パロディ作品によってその商品のマーケットが侵害されるとは言い難い。むしろ、場合によっては、オリジナル作品の売れ行きがそれによって刺激され増加する可能性もある100)。
とすれば、パロディに対して、フェアユースの域を越えていると判断する場合には、オリジナルと混同することが必要であると思われるが、そうなった場合には、それはもうパロディではなく、明確な複製であるといってよい。
4.3 日本におけるフェアユース理論の適用の可能性
前節で述べたように、アメリカにおいて、フェアユースの法理は完全に機能しているものであり、その理論は新たなる判例が出される度に確実に進化している。日本の著作権法は第30条以下で著作権の制限事項を列挙しているが、アメリカ著作権法はそのような手法を用いることよりも、各状況に応じてその都度対応する方法を選んでいる。しかも、各裁判官が case by case で著作権侵害かあるいはフェアユースかの判断を下すことのできるこの制度を、「追加的な推敲のために頻繁に議会へ戻すことなしに、空白部分の必要な補充と、判例の改革の両方を可能としている」ものとし、このような仕組みは決して欠点ではないとしてる101)。
マルチメディアのような、技術の進歩がめざましく速く、先の見通せないハイテク分野においては、法制度を新しいシステムが登場する度に逐次改正し、遅れることなくリアルタイムに追いついていくことは困難な作業であると言える。よってこのような分野ではアメリカのような制度の方が対応しやすい。早急な対応ができるということは、それだけ取りこぼすことなく、権利者の保護を行うことができるということである。
ここで一つ留意しておかなければならにことは、日本の著作権法においてもフェアユースという精神が決して否定されているわけではないということである。このことは、加戸の『逐条講義』における記述からも伺える102)。日本法では、「私的使用」等という概念を用いて第30条から第47条の2に渡って細かく定義し、制限列挙しているが、その根本にはフェアユースの精神が存在するわけである。大陸法諸国の制度に習い制限列挙方式をとった結果、case by case の判断という柔軟性が後退したにすぎないのである。いま、マルチメディア・ソフトやデジタル著作物に対して、その新たなるカテゴリーを作りその権利保護をはかろうとするならば、当然その中で保護されるべき各種権利をどう扱うかを考慮しなければならない。その具体的な方法は今後の課題とせざるをえないが、その際に 3.1.4で触れた、DATの使用に伴う法改正の経緯が参考となるであろう103)。著作権法第30条第2項は、「複製権」を制限するものとして「報酬請求権」を定めている。すなわち、
DATなどのデジタル式録音装置を用いCDなどから音楽を録音する者は、著作権者の許諾を得る代わりに、一定の補償金を納める必要があることを規定したものである104)。このような手法を用いることにより、著作権者の権利行使の範囲を制限しているわけである。アメリカにおいてベルヌ条約加盟の際に Visual Artists' Rights Act を認めたことも(本論文 3.3参照)、権利行使を制限した一つの先例として捉えることができるであろう。よって「マルチメディア・ソフトの著作物」というカテゴリーを設ける際に、一つの手法としてフェアユースの概念を用い、著作権者の権利を行使する範囲を制限することも、立法政策上十分可能なはずである。
さらに権利保護という立場から考えてみても、日本における著名なパロディ裁判である「白川義員 対 マッド・アマノ」事件を担当した、弁護士の岡邦俊が述べているように、「著作権とは、本来、制作者の知的冒険の自由と表現の自由を保障する権利であるはず」105)であり、新たなる著作物の製作に規制を掛けすぎることは決して好ましいことではない。
以上のことを考慮してみるに、少なくてもデジタル著作物の範囲の中では、わが国においても、フェアユースの法理を用いて、著作権者の権益を守りつつ、著作物の流通を促進させるような制度を導入することは十分可能であると言える。
よって筆者は、そのような制度の導入の検討を提案するものである。
− おわりに −
著作権法の目的の一つはその第1条で示すように、「権利者の保護を図る」ことにある。とすれば、自己の著作物がどのように扱われるかは著作者自身が決定することであり、著作者が決定したその最初の意思は、エンドユーザーに至るまで一貫して保護されるべきである。よって著作者が自らの著作物を世に公表するその段階でその作品に対し、他人による一切の改変を認めず最初のままの状態で固定して流通させるか、あるいは、デジタル著作物として第三者によって改変されながら流通させるかを選択し、利用者はその意思に従って著作物を利用することが、権利者の保護を図る最良の方法であると言える。これは言い換えれば、自らの作品に対し、それを将来に渡って不変なものとし、ただ鑑賞されることをもってのみ名誉ととるか、次なる製作者に素材として使われ広く浸透していくことを持って名誉と捉えるかを、その著作物を世に送り出す作者が選択することになる。
さらにもう一つの目的である「文化の発展への寄与」という点で考慮するならば、明らかに著作物は流通されなければならず、新たなる著作物を作成し、新たなる文化を創造できる環境を整備することこそが主眼におかれるべきことである。
この二つの点を念頭に置きつつ、マルチメディア・ソフトの著作権の保護を考えるならば、本論文でこれまでに渡って述べてきたように、一方でマルチメディア・ソフト自体をを保護するための特別の領域を設け、一方で著作者人格権を緩和して、同一性保持権や名誉毀損にとらわれることなく、自由な著作物の創造を保護する必要があるという結論が導き出される。
マルチメディアに限らず、デジタルメディア全盛の時代には、WIPO(世界知的所有権機構)やGATTにおいて議論されているように、著作権を含む知的財産権のあり方全体をもう一度あらゆる方向から問い直す必要がある。それは単なる法的解釈にとどまらず、文化的意義についてもちろん、経済、社会制度といったものまでも考慮すべきものである。本論文はそうした課題を検討するために必要な諸前提を整理したものである。
1)木村孝『コンピュータ・マルチメディアと法律』(トライエックス 1993年)20頁
2)ただし、翻訳や、編曲等は二次的著作物として認められている。著作権法 2条1項11号、 11条 参照
3)同報告書の見解によれば、パッケージ型ソフトに関する問題の内容は、概ね通信ネット ワーク型のソフトにも当てはまるものと考え、ネットワーク型のソフトに固有の問題が 仮りにあるとすれば、その普及・発展の状況を踏まえ、今後必要に応じて検討するとして いる。
しかし、インターネット等の急速な普及により、既にコンピュータ・ネットワークにお ける固有の問題が現れ始めている。また、筆者はネットワーク型のソフトこそ真のマルチ メディア・ソフトであるという立場をとるものであり、本論文においても、ユーザーの使 用する端末がネットワークに接続された状態で使用されることまでも考慮するものである。
4)「Infrastructure for the Global Village」と題する論文が、SCIENTIC AMERICAN の
1991年9月号に掲載されている。現在のアメリカのハイウェイを整備したのが、彼の父親 であり、ゴアは情報通信用のハイウェイ、すなわち、光ファイバー網を全米に整備し、親 子二代に渡ってハイウェイを整備することを目指している。なお、当初はNII
(National Information Infrastructure)構想としてスタートしたこの計画も、今では 全地球規模での情報通信環境整備を念頭においたGII(Global Information Infra-
structure)構想に発展している。
5)郵政省『情報通信産業の新たな想像にむけて−情報通信の高度化による需要と雇用の創 出−』(平成6年4月)4頁
6)議長は Ronald H. Brown 商務省長官
7)この財産権的側面と人格権的側面の関係をどのように位置づけるかは、著作権一元論、 著作権二元論などと学説の分かれるところである。このことに関しては、半田正夫『著作 権の研究』(一粒社 昭和46年)に詳しいが、本論文の検討課題とは直接の関係がないの で、ここではわが国の著作権法上で認められている権利を順に記載する。
8)ただし、著作者人格権は著作者の死亡後は完全に消滅するわけではなく、原則として、 著作権者が存しているとしたならば、その著作者人格権の侵害となる行為はしてはいけな いとされている。著作権法60条 参照
9)しかし、著作権法上に人格権の規定を定めていることは、国際的には決して珍しいこと ではない。著作権の国際条約であるベルヌ条約をはじめ、多くの国が著作権法の中に人 格権の規定を持っている。むしろ、人格権の規定を持たないアメリカの方がベルヌ条約加 盟国の中では異質であると言える。そのアメリカも1990年の著作権法改正で、美術の著作 物については[106条のA]によって人格権について明文化し、著作者の名誉を害する改 変を禁じている。
10)加戸守行『著作権法逐条講義(新版)』(著作権資料協会 平成3年)
著者は文化庁の著作権課長や文化部長などを歴任し、昭和45年の現行著作権法の制定や その後の改訂に実際に携わった。よって本書は単なる逐条解説にとどまらず、各条文の制 定趣旨や、実際にどのような状況での運用を想定しているかなどが細かく記述してあり、 著作権法の立法意図が細かく記されている。
11)加戸 前掲『逐条講義』137頁
12)加戸 前掲『逐条講義』140頁
13)これはわが国の著作権法独自の規定ではなく、(ベルヌ条約の6条の2)の規定を受け ての条文である。
14)FINDING A BALANCE:Computer Software, Intellectual Property and the Challenge
of Technological Change , Office of Technology Assessment Congressional
Board of the 102d Congress,170(1992)
15)この場合の音声、画像とは当然デジタル・データ化されたものである。そして画像は静 止画像と動画像に分けられる。これらはコンピュータ・グラフィックスのように最初から デジタル・データとして製作されたものと、既存のアナログ形式で記録された絵画やビデ オ画像をスキャナー等で読みとり、デジタル・データとしたものに更に分けられる。これ らデジタル化された著作物の権利の扱いについては、本文中で適宜触れていく。
16)名和小太郎『知的財産権』(日本経済新聞社 1993年)187頁
17)マルチメディアソフト振興協会『マルチメディアソフトの知的財産問題に関する調査報 告書』(平成5年3月)22,23,25頁
18)「文化庁・著作権審議会報告書」11頁にもその旨記載されている。3.1.1参照。ただし、 この問題は本論文の直接の検討課題とは方向性が異なるため、ここでは取り上げないこと とする。
19)著作権法で言う「映画の著作物」には、映画の効果に類似する視覚的又は視聴覚的効果 を生じさせる方法で表現され、かつ、物に固定されている著作物が含まれ、レーザーディ スクやVシネマ(劇場公開はされず、ビデオテープでのみ配給される映画)なども映画の 著作物である。
20)山路克郎「デジタル技術が著作権に与える影響」『人文学と情報処理 No.5 情報化時 代の著作権』(勉誠社 1994)54頁
21)本論文「はじめに」 参照
22)名和「マルチメディアの著作権」『情報学シンポジウム講演集』(1994年1月)184頁
23) 同上
24)ビデオゲームやデータベースの持つインタラクティブ性と区別するために、筆者はマル チメディアのインタラクティブ性を「高度なインタラクティブ性」と呼ぶこととする。
25)中山信弘「著作権保護と情報の利用・流通促進の基本的視点」『ジュリスト 1994.12. 1号(No.1057)』52頁
26)米国では、これに類似の事件として、Playboy Enterprise,Inc. v. Frena,
839 F. Supp. 1552(M.D. Fla. 1993) がある。
27)知的財産研究所 主催 「国際知的財産シンポジウム−マルチメディアを巡る新たな知的 財産ルールの提唱− 原稿集」青山友紀(NTT知的財産部長)11頁
28) 同上
29) 同上
30)これに関連する事項として、郵政省では、『電子ネットワーク利用に関する調査研究会 報告書』(座長:堀部政男(一橋大学法学部) 平成6年6月)でパソコン通信のBBS (電子掲示板)等ににおける著作権処理に関する指針をまとめている。それによれば、
BBS等に著作物を掲載することは、「私的目的のための複製」(著作権法第30条)には 該当せず、他人の著作物をそのままアップロードする場合には、著作権者の、複製権・有 線送信権の許諾が必要であり、二次的著作物を創作してアップロードする際にも原著作者 の、複製権、翻案権及び有線送信権の許諾が必要であり、ダウンロードした後の著作物を、 個人的使用の範囲外で利用することについては、複製権、翻案権等を中心とした、権利に 対する許諾を、著作権者から得る必要があるのは当然である、としている。
31)要約は筆者による。
32)文化庁『著作権審議会第9小委員会(コンピュータ創作物関係)報告書』(平成5年
11月)28-29頁 を筆者が要約。
33)これは、わが国での分け方であるが、94年7月に出された『IITFの報告書』(本論 文 1.参)によれば、アメリカにおいては、視聴覚作品とみなされる可能性が高いとし ながらも、将来的には著作権の下の分類をなくすことも検討されるであろうと、かなり踏 み込んだ見解を示している。
34)伊藤 真「マルチメディアに対応した知的所有権の保護体制」『ダイヤモンド・ハーバ ード・ビジネス』(1994年8・9月号)52-56頁
35)伊藤の言うマネジメントソフトとは、マルチメディア・ソフトにおける、検索システム などの部分を指す。
36)木村 前掲 303頁
37)松田政行「マルチメディア著作権」『法とコンピュータ No.10』(1992年9月)50-67 頁
なお、この論文はマルチメディア著作権に関しての記述としては非常に初期のものであ る。3年以上前にこのような見解を示した点には先見性があるが、現在の状況に即さない 点も見られる(技術の進歩が非常に早いことにもその原因の一端がある)。本論文では、 そう思われる部分に関しては私の意見を述べたい。
38)加戸 前掲『逐条講義』102頁
39)加戸は、前掲『逐条講義』103頁において「編集著作物の保護というのは、純粋な表現 方法というアイデアを保護するのではなく、具体的な編集物に具現化された編集方法を保 護するものですから、かりに、東京都職業別電話帳の編集方法を採用して大阪府職業別電 話帳を作成しても前者の編集著作権侵害にはなりません。素材が全く異なれば編集著作物 の著作権は動かないととうことです」と言っている。
40)脚注32)を再度参照のこと
41)加戸 前掲『逐条講義』104-105頁
42)加戸 前掲『逐条講義』105頁 によれば、「情報の選択、あるいはその体系的な構成を、 データベースを知的創作物たる重要な要素と認め、そこに創作性があれば著作物として保 護されることを明らかにしています。第12条の規定と違いますのは、第12条が「配列」を 一つの要素としてあげているのに対し、本項では「体系的な構成」としている点です。こ の「体系的な構成」という点がデータベースとしての重要な要素であります」とある。
43)例えば、マルチメディア・ソフトでは「ハイパーテキスト(Hyper Text)」という形式 が多用されるはずである。
ハイパーテキストは、1965年に Ted Nelson によって提唱された概念で、関連性のある 文字、画像、音声などのデータを、それぞれリンク(連鎖)させて情報を表現し、かつ検 索できる手法である。この形式によって作成されたソフトは、連想ゲームのように、大量 の情報の中から次々と関連情報をたどっていくことが可能である(それは複数のファイル にまたがっていてもかまわない)。従来の文字だけのテキストを越えたテキストという意 味で、ハイパーテキストと呼ぶ。身近なところでは、Macintosh の「ハイパーカード」や、 Windows の「オンライン・ヘルプ」に採用されており、インターネット上でマルチメディ ア環境を実現しているWWW(World Wide Web)がその最たるものである。
44)松田 前掲 57頁
45)松田 前掲 58頁
46)3.1.2 参照
47)紋谷暢男「通信と知的財産権−著作権法を中心として」『情報通信学会誌 第43号』
(平成6年5月)33頁
48)児玉晴夫『ハイパーメディアと知的所有権』(1993年 信山社)53頁
49)権利処理機構においては、様々な著作物の情報を著作物の種類ごとに集めたデータベー スをつくり、それを基に権利処理の代行業務もを行う。著作物の利用された経緯が記録と して残るようなシステムをつくるべきであろう。
50)副題:「マルチメディアを巡る新たな知的財産ルールの提唱」
委員長は中山信弘(東京大学法学部)1994年2月発表
51)本論文の検討課題とは直接には関係しないが、そこには各省庁間の覇権争いがあること もまた事実である。文化庁サイドのレポートが権利者の保護を、通産省サイドのレポート が産業の振興を念頭において作成されることはむしろ当然とも言える。
52)日本の著作権法には契約によって同一性保持権を放棄することができるかどうかが明記 されてはおらず、研究者の間でも結論が出てはいない。例えば、中山信弘も「人格権の譲 渡はできないが(著作権法59条)、改変について承諾することは原則として認めれるであ ろう。しかし、事前に改変について一般的な承諾をすることが有効であるか否かという点 には疑問もあるし、また、一般的にはそのようなことが有効であるとしても全ての場合に 有効であるか否かという問題は残る。」と述べている。 『ソフトウェアの法的保護(新 版)』(有斐閣 1988年)69頁
53)吉田正夫「マルチメディアと著作権」『人文学と情報処理 No.5 情報化時代の著作権』 (勉誠社 1994)50頁
54)米国著作権法106条のAでは、(視覚美術著作物は同一性保持権について)著作物の使 用の態様を規定し、書面で放棄する旨を明らかにして著作者人格権を放棄することができ るとしている。
英国著作権法87条は、著作者人格権は放棄できるとし、更に、放棄の効果には第三者効 (反対の意志表示がない限り、ライセンシー及び権利継承者に対しても、放棄の効果が及 ぶと推定される。)が認められるとしている。
ここは、p.18を移しただけ、英語の原文の引用に換えるか、前節の文章中への挿入に 換える。
55)かつて、わが国においてコンピュータ・プログラムをどのように法律で保護すべきかが 議論された時代、今のマルチメディア・ソフトの保護と同様な各種提案がなされ、議論が なされた。その時の保護立法の法政策論のモデルは、北川善太郎「ソフトウェア保護のた めの法政策論」『法とコンピュータ No.2』(1984年 6月)6頁 にまとめられている。 北川は同論文で、ソフトウェアに著作物性を一切認めないソフトウェア(権)法を特別立 法で制定するという案に対し、ベルヌ条約や万国著作権条約(当時、アメリカはまだベル ヌ条約に加盟していなかった)に加盟する主要各国が、著作権ベースでコンピュータ・プ ログラムの保護に対応していることを挙げ、日本が孤立した独自路線を歩むことへの警告 を示している。
今、マルチメディア・ソフトの保護を論じるに当たっても、諸外国とのハーモナイゼー ションを考慮することを念頭におくべきであろう。
56)同『Exposure(公開草案)』18頁
57)山地克郎 前掲『国際知的財産シンポジウム 原稿集』8頁
58)青山友紀 前掲『国際知的財産シンポジウム 原稿集』12頁
59) 同上
60)Dennis S. Karjala 前掲『国際知的財産シンポジウム 原稿集』17頁
61)Karjala 前掲『国際知的財産シンポジウム 原稿集』18頁
62)今日の「デジタル化された著作物の権利保護」という考え方は、Dreier が1993年に
WIPOで行った講演に端を発している。 SOFTIC LAW NEWS No.47(ソフトウェア情報
センター 1993.8.2)参照
63)その理由の一つとして「著作者を一方の当事者とし、マルチメディアの製作者をもう一 方の当事者とする契約交渉においては、両当事者の交渉力が同等でないため、放棄の法的 有効性を認めることによって、実際問題として、著作者人格権を全部まとめて削除してし まうことに往々にしてなってしまうため」ということも挙げている。
Tomas K. Dreier 前掲『国際知的財産シンポジウム 原稿集』23頁
64) 同上
65)伊藤 前掲 56頁
66)松田 前掲 63-66頁
67)伊藤 前掲 56頁
68)名和 前掲『情報学シンポジウム 講演集』P.186
69)山路 前掲「デジタル技術が著作権に与える影響」56頁
70)松本恒雄「デジタル化権をめぐって」『第4回 コンピュータ・ソフトウェアの法的保 護に関する国際シンポジウム 議事録』(平成6年3月)財団法人 ソフトウェア情報セ ンター 397頁
なお、松本が言うデジタル化権とはデジタル化を許諾する権利の意味であるが、3.2.3 (4)のデータ化権と同義の言葉としてデジタル化権が使われる場合もあるので注意が必要 である。
71)例示として、デジタルカメラで撮影した画像が収録されているフロッピーディスクを挙 げている。
72)私見では、アナログの著作物をスキャナーやデジタル録音機などにかけて、ただ単にデ ジタル化しただけでは、名誉声望を害する改変は起こりない。またそれを認める必要もな いと判断する。(これは単なる複製にすぎない。オブジェクト・プログラムをソース・プ ログラムの複製物とした、「スペース・インベーダー・パートII事件(東京地裁昭和57年 12月6日判決 判例時報1060号18頁)」の論理を参考できるであろう。)よって、名誉毀 損やプライバシー侵害が成立する時点は、デジタル化された著作物を改変した後である。
73)佐野稔「マルチメディアに関する法的ルールの構築に向けて「量子メディア保護法
(仮称)」試案の概要」『NBL No.542(94/4/1)』6−12頁
74)著作者人格権を放棄していない作品は、従来どおり著作権法で保護する。
75)超流通とは、森亮一(筑波大学)の提唱する、著作物の流通および、その使用料の決済 システムで、『Exposure(公開草案)』12頁の解説によれば、
「ソフトウェアやデジタル化された著作物の「所有」に対してではなく、「利用」に対し て課金を行うものである。ソフトウェアやデジタル情報をどのくらい使用したかを記録す るボードを取りつけた超流通コンピュータを用い、ボードの記録に基づいて利用に対する 対価を計算して、利用者から徴収する。徴収された対価は、ソフトメーカーやデジタル情 報の提供者の間で、精算する。」
システムとある。
また、他に、著作物の流通構想に関しては、北川善太郎(京都大学法学部)が提唱する 「コピーマート」がある。これらの構想の詳しい解説は提唱者のコメントも含めて、『日 経エレクトロニクス 1993.6.7号(No.582)』に掲載されている。
76)田村善之「デジタル時代の知的財産法制度」『ジュリスト 1994.12.1号(No.1057)』60 頁
77) 同上
78) 同上
79)椙山敬士「著作権システムとディジタルデータシステム」『前掲 ソフトウェア情報セ ンター・シンポジウム 議事録』 405頁
80) 同上
81)Visual Artists' Rights Act of 1990, Pub. L. No. 101-650, 104 Stat.
5128, 5128-33 (codified in scattered sections of 17 U.S.C.)
82)ただし、ここでの議論は連邦法上のものであり、アメリカでも州法その他のレベルでは 著作者人格権の保護規定を定めている。アメリカはベルヌ条約加盟時にもその点を示し、 人格権の保護を行っている旨を主張している。
83)See Note,Visual Artists' Rights in a Digital Age,107 Harv. L. Rev.1977,
1985(1994)
84)加戸 前掲『逐条講義』537-538頁
85)著作権法政策の議論からは外れるが、情報ネットワークが整備された場合、いわゆるコ マーシャルの形態も、現在の不特定多数を対象にした「ばらまき的」なものから、ネット ワークを利用した電子的なダイレクトメールの形態に変わるであろうと言われている。そ の場合マルチメディア・ソフトが、加戸が言うこの(2)のような利用のされ方をされるこ とも十分考えられる。
86)Information Infrastructure Task Force, Intellectual Property and the
National Information Infrastructure: A Preliminary Draft of the Report of
the Working Group on Intellectual Property Rights, 59 Fed. Reg.
35,912,45 & n.132(1994)
87)曽我部 健「著作権に関するフェアユースの法理」『著作権研究 20』(1993年 著作権 法学会)102頁
88)commom law と並んで発達した法理で、common law 上は違法の評価がなされるものであ るが、正義と衡平の観点からは救済すべきであると判断された時に適用される。
89)17 U.S.C. §107(1988 & Supp. V 1993)
90)See American Geophysical Union v. Texcao inc.,802 F. Supp.(S.D.N.Y. 1992)
91)曽我部 前掲 102頁
92)加戸 前掲『逐条講義』539頁 参
93)114 S. Ct. 1164(1994)
94)464 U.S. 417(1984)
これは、ビデオデッキによる番組の録画行為が著作権を侵害するものであり、そのた めのビデオデッキ[ベータマックス]を製造しているソニーは侵害に寄与しているとし て、テレビ番組製作会社などがソニーを訴えたものであるが(ここには、アメリカの著 作権法がフェアユース(公正使用)という概念を持つ代わりに、プライベートユース (私的利用)やホームユース(家庭内利用)*といった規定を持たないという背景もある。) アメリカ最高裁はたとえビデオデッキが営利目的で作られているものであっても、ユー ザーの番組録画行為は商業目的ではなく、タイムシフティングという目的のためである からフェアユースが成立するとした判決である。
*その後1992年に家庭内録音法が成立している。
95)Acuff-Rose 側が Campbel 側を訴えたのは、発売のおよそ一年後、25万枚近く売れた後 である。
96)例えば、前述の Sony Corp. v. Universal City Studios,Inc.の他に、フォード大統領
の回想録を初めて連載する権利を他の出版社が(横取して)先にスクープしたことは、
著作権者に(契約解除という)経済的損害を与えたので、フェアユースではないといし
た、Harpar & Row,Publishers,Inc v. Nation Enters.,471 U.S. 539,561(1985)や、短
編小説を書いた原著作者が異議を唱えている台本の台詞があるにもかかわらず、その映
画を公開したことはフェアユースではないとした、Stewart v. Abend,495 U.S. 207,
216(1992) がある。
97)Richard R. Wiebe,Deriving Markets From Precedent; The Supreme Court's
decision on parody may facilitate more serious applications: multimedia
compilations derived from the works of others,The Recorder(March 21,1994,
Monday)
98) 同上
99)本論文 3.2.3(1)参照
100)例えばこのことは、かつてラジオ放送で音楽を流そうとした時に、レコードが売れな くなるとの反対があったが、実際には、かえって売り上げが増加したことなどによっても 裏付けられる。
101)Information Infrastructure Task Force, Intellectual Property and the
National Information Infrastructure: A Preliminary Draft of the Report of
the Working Group on Intellectual Property Rights, 59 Fed. Reg.
35,912,52 n.156(1994)
102)加戸 前掲『逐条講義』178頁 参照
103)本件に伴う著作権法の改正経緯や課題については、斉藤博 他「<座談会>私的録音と
報酬請求権」,文化庁文化部著作権課「著作権法の一部改正(私的録音・録画関係)に ついて」 共に『ジュリスト No.1023(1993年6月1日号)』に詳しい。そこには、この
手法が最も現実に即したものであること、権利制限規定の一環として30条「私的使用」 の項目の後に追加したことなどが、関係者の意見を交え記載されている。
104)実際には、録音用テープの販売価格に上乗せすることによって徴収される。
105)岡 邦俊 『著作権の法廷』(1991年 ぎょうせい)57頁
「白川義員 対 マッド・アマノ」事件 : 山岳写真家の白川義員が撮影した、山の斜面 をシュプールを描いて滑る数人のスキーヤーの写真を、パロディ作家であるマッド・ア マノが利用し、山頂に大きなタイヤをおいて、スキーヤーの滑った跡をタイヤの転がっ た痕跡になぞった写真を合成したものである。白川側が著作権侵害で訴えた。
第一次第一審判決(昭和47年11月20日) 原告の請求を認容
第一次控訴審判決(昭和51年5月19日) 原告の請求を棄却
第一次上告審判決(昭和55年3月28日) 控訴審判決を破棄差戻し
第二次控訴審判決(昭和58年2月23日) 被告(アマノ側)の控訴棄却
第二次最高裁判決(昭和61年5月30日) 第二次控訴審判決を破棄差戻し
第三次控訴審(昭和62年6月16日) 和解成立
という非常に複雑な経過をたどった。この間、パロディ、引用、同一性保持権など著作
権の様々な問題について議論された。
なお、岡は本書の中で、自由利用という言葉を用い、マッド・アマノのパロディ写真 はフェアユースであると述べている。